デジタル時計の表示は、1時間前に1月2日になってしまった。

 わたしがどんなに(もう少しだけでいいから1月1日のままでいて)なんて念じても願っても、時間の流れを食い止められる訳ないって分かってた。神様はそこまで暇な人じゃないもの。だけど、気分だけでもまだ1月1日でいたいなぁなんて乙女なことを考えたわたしはデジタル時計から目を逸らして、どのチャンネルでも似たようなことしかやってない正月特番を観ていた。それもここまで。見飽きたCMが流れ始めた所でデジタル時計を眺めて、小さく小さく、溜息を吐いた。ああ、愛しい人の誕生日が、昨日になってしまった。

 落胆してるけど、別に祝えなかった訳じゃない。ただ、誕生日に会いに行くのは物理的に無理な距離に彼が住んでるから、電話だけしかできなかった、ってだけ。しかも電話してみたら向こうは正月祝いと誕生祝いの合わさった宴会途中だったみたいで、エースはすごく楽しそうで、その声を聞いたらわたしも楽しくなって、でも電話を切ってみればわたしは此処にひとりだった。ノイズ交じりの騒がしさの余韻がざらざらとして、すごく寂しい気持ちになった。エースのお祝いなんだから、エースが幸せそうならそれでいい筈なのに。なんて悪い子なんだろう、わたし。だめだなぁ、大好きな人の誕生日なのに、今日は色んな気持ちで頭がぐちゃぐちゃだった。

 わたしの誕生日に彼がくれたクッションを抱き締めてソファにごろりと寝転がる。エースはこれを、おれだと思って大切にしろよって言ってたっけ。そんなの無理だよ馬鹿やろう。だってこのクッションはわたしをぎゅっと抱き締めてはくれないもの。耳元で名前を呼んでくれないし、熱いぐらいの体温も持たない。エースの代わりは、どこにも無い。

 エースのことを考えていたら、携帯電話が鳴った。くぐもった、聞きなれたメロディ。それに反射的に体を起こしてクッションをぽいと放り投げ、音を頼りに鞄を探し、携帯を探す。着信音に合わせて口ずさむ、エースが好きだって言ってたロックバンドの曲。お願いだから切れないで!もうすぐ見つけるから!指先に触れたストラップの感触を釣りでもするみたいにぐいっと引き上げて、素早く通話ボタンを押して耳に押し当てた。

「も、…しもし?」
『もしもし。…あー良かった、出ねェからもう寝てるかと思った』

 さっきまでぐるぐるしてた寂しさとか自己嫌悪が、すぽーん!と音を立てて部屋のどこかへと飛び去っていった。エースの声は魔法みたいだ。だらしなく緩む顔を見られずに済むのは、電話のいいところだと思う。さっき放り投げてしまったクッションを抱え直して、ソファに座り直した。受話器の向こうで、びゅうびゅう風の鳴く音がする。

「ごめんね、携帯手元になかったから。…ていうか外にいるの?」
『ん?ああ、まァな。かなり寒ィ』
「こんな時間なのに?…もう、風邪とか引かないでよ」
『分かってるって。は今家か?』
「うん、そうだよ」
『何してた?』
「テレビ観てた」
『深夜でも面白ェ番組多いよな、この時期は』

 会話の内容はすごく下らないことばっかりなのに、心がぽかぽかと暖かく満たされていく。エースの体温は受話器越しでも少しだけ届くんだよね、すごいよなぁ。話してる内にちょっとは引き締まるかなって思ってた表情も、どんどん緩む一方で。この場にエースがいたら、なんつーカオしてんだよ、って呆れられてしまいそうだ。…あ、そう思ったら少しだけ寂しくなっちゃったかも知れない。やっぱり、エースの顔が見たい。呆れられたっていいから、会いたい。でも我侭を言えるほどわたしは強くない。出そうになった「会いたい」を、咄嗟に「エースは外で何してるの?」にすり替えた。エースは3秒ぐらい間を空けて、こう言った。

『天体観測』
「…へ?」
『星と月が綺麗なんだ』
「………」

 ちょっと見ない内に、エースくんは純情少年になってしまったらしい。いや、今までが純情じゃなかったかって言われたらそりゃ分かんないけど。でも、こんな時間に、こんな寒い時期に、天体観測って!その意外性はどうなの!思わずちょっと吹き出して笑ったら、エースが不機嫌になるのが電話越しでも分かった。綺麗な眉の間に深々と刻まれた皺がありありと想像できる。

『ンな笑うことねェだろ!』
「いや、ごめん。びっくりしちゃって」
『嘘じゃねェから、お前も空見てみろよ』

 エースに言われて、カーテンを閉め切った窓をちらりと見遣る。窓を開けたら寒いだろうな。でも、ここからは随分と離れた場所でエースが眺めてる夜空をわたしもここで眺めれば、少しは寂しさが埋まるのかもしれない。わたしたちは離れてても空は繋がってる、なんて、クサい台詞は言わないけど。携帯を耳に当てたまま、窓に歩み寄ってカーテンを開ける。少し曇った窓を思い切って開けたら、キンと澄んだ冷たい風がここぞとばかりにびゅうびゅう舞い込んできた。肌が一気に体温を失う。目を細めて、瞬きをして、漆黒というよりも濃紺に近い夜空を仰いだ。煌々と輝く金色の月が、ぷかりと浮いている。確かに綺麗だ。

「な?綺麗だろ」
「うん、ほんと………あれ?」

 間の抜けた声を零したら、エースは電話の向こうでちょっと笑った。
 …いや、笑ってる場合じゃないよエース。だって今わたし、エースの声が受話器の外からも聞こえたんだよ?寂しさが度を越えて幻聴だよ?「おーい、そろそろ気付けって」ほらまた聞こえた!下からだ!見下ろした先にエースの姿が無くて落胆するのは分かってるのに、いる筈がないのに、わたしはどうしても期待が堪えきれずに視線を下へと遣った。電灯の下、スポットライトを当てられた舞台上のように明るくなった路面。

 わたしに向けて手を振る彼が、そこにいた。

 掌から力が抜ける。落ちかけた携帯を慌てて握りなおす。なんで?あの時間に宴会してたんだから、どう頑張ってもここに着けるはずないのに!どうしよう、どうしよう、嬉しすぎて、心臓が肋骨をぼーんと突き破って飛び出しそう!笑顔の彼に向けた視線が剥せないまま、呆然と離しかけてた携帯を慌てて耳にくっつけた。

「まっ…待ってて!!そこから動かないで!!」
『おう、分かった』

 見下ろした先の彼が携帯に向けて口を動かすと、耳元から彼の声が聞こえた。それを見た瞬間に、わたしは踵を返して走り出していた。玄関の鍵なんて知らない、上着なんて知らない、エレベーターを待つのすら煩わしい。急がなきゃエースが幻みたいに消えてしまいそうな気がして、回らぬ足を心で急かす。ただでさえどきどきしてる心臓がもっとどきどきして、寒くならなきゃいけないはずの体に体温が循環する。やっとの思いでエントランスホールを走り抜けて、人気の無い道路へと飛び出した。さっきエースがいた筈の電灯の下には、誰もいなければ影すらない。

 一気に体温が抜け去っていく。頬をなでる風は冷たい。わたしは本当に、幻を見たの?

「…エー、ス…?」
『…なんつーカオしてんだよ』

 名前を呼んだら、電話から応答があった。気配に振り返れば、エントランスホールの陰から携帯電話を耳に当てたエースが、ゆっくりと歩いてきた。わたしがさっき想像したのと全く同じ、呆れたような表情で。

 エースは通話を切って携帯を仕舞うと、わたしの傍まで歩いて来てくれた。

「会いたかったんで会いに来ちまった。真夜中にゴメンな」

 少し眉尻を下げた、困ったような笑顔でエースが言う。ノイズ交じりじゃない、クリアな声で。黒い髪、高い身長、そばかす、笑顔、広い肩幅。わたしが望んだエースが、本当に今、ここにいる。…今日の神様は、すごく暇だったみたいだ。良かった、幻じゃなかった、会いたかった、寂しかった、びっくりした、どうしてここにいるの、なんで驚かすようなことするの。言いたいことが多すぎて、ごちゃごちゃになって、思ってること全部を言葉にするのは無理だと分かったわたしは、とりあえずエースに飛びついた。エースは力強い腕で、しっかりとわたしを抱きとめてくれる。ぎゅ、と背中から体全体に掛かる圧力が心地いい。わ、やだ、視界が潤んできた!

「…な…っん、で…誕生日なのはエースなのに、わたしがエースに喜ばされてんの…!?」
「バカだな、お前。会えて嬉しいのはお前の方だけじゃねェだろ」

 八つ当たりしたかった筈の言葉が、綺麗に甘い砂糖菓子となって返って来た。うう、だとか、んぐ、だとか、最早人間の言葉が話せなくなったわたしの頭を大きな掌で撫でて、エースが優しい声で言う。

「プレゼント、受け取りに来た」

 そんなこと言われたら、あげなきゃいけなくなる訳で。ほんと、何もかもが卑怯な男だなぁってどこか冷静に考えてしまいながら、腕を解いてエースを見上げた。綺麗な黒い瞳と視線が絡み合って、外せなくなる。エースはぐずる子供をあやすような、そんな顔をしていた。わたしは息を吸って、吐いて、吸って。まともに考えてなかったお祝いの言葉を、どうにかして紡ごうと唇を振るわせた。

「エース、お誕生日、おめでとう!これからもずっと、一緒に、いて…ください…」

 これ、ただのプロポーズだ…!そう気が付いて声をフェードアウトさせてみたけど、エースの耳は誤魔化せなかった。違うんだよエース!プレゼントはわたし★みたいなそういうアレじゃなくって、ただ嬉しくて…!言い訳を発そうとわたしの唇は半開きになったけれど、エースの親指がわたしの唇をそっと押さえたせいで何も言い訳できなくなった。ニヤリ。エースの唇が妖しい弧を描く。

「そりゃァ…今貰うには勿体ねェプレゼントだな」

 エースの影で、わたしに届いていた電灯の光が遮られた。エースの掌は暖かい。それと同時にさっきのわたしを殴ってやりたい気持ちになった。さっきまでのわたし、よく聞きなさい、エースの体温は携帯越しに伝わってくるような体温とは比べ物にならないよ。

「有難く受け取るけどよ」

 こちらこそ有難く受け取らせてもらうね。エースにふさがれた唇の中で、小さく呟いた。


星屑の先、月の下で逢瀬


(一日遅れで祝うという謎の試み。たのしかった。焦ったけど。(爆笑))
(しょぼくてすまんかった!エース!お誕生日おめでとう!!//2010.01.02)