力強く押さえつけられた右手首が一番痛むはずなのに、今のあたしの感覚神経は唇にばかり集中してしまっている。唇がひどく熱い、相手が炎だからだろうか、とけてしまいそうだ。あたしは状況すら把握できてないのに、僅かな吐息すら逃すまいとあたしの唇を塞ぐどころか、粘着質な音を立てながら口の中にまで器用な舌が侵食してくる。見事に私の混乱はピークに達した。どうにかして離して貰おうと熱い舌に歯を立ててみたら目の前の綺麗な眉が歪んで、薄っすらと瞼の間から覗いた黒い瞳孔と視線がぶつかった。…と思ったら、血の味ごと唾液を送り込まれてしまった。不快な鉄の味が舌の上を滑る。飲み込みきれないそれが唇の端を伝って顎を伝う。やばい、息が、できない。
 酸欠で気絶寸前のあたしに気が付いて、エースがやっと唇を離した。それでも、銀色の糸がまだ唇を繋いでいたけれど。唯一自由な左手の甲で自分の唇を拭うと、エースの眉間には不満げな皺が寄った。潤んでしまった視界では、それを捉えるのが精一杯だった。

「大丈夫か?」
「………」

 今までの熱烈なキスが嘘のようにそう尋ねてきたエースに、今のあたしが大丈夫そうに見えますかと視線で必死に訴える。というか、睨む。口は今酸素を肺に送り込む作業で精一杯なので、声を発する余裕はない。エースは切れ長の瞳を細めて、あたしの視線の意図を汲み取ろうとしているようだった。いつもなら無邪気にきらきらしている筈の彼の目には、ゆらりと揺らぐような微かな灯りが宿っている。
 頼り甲斐があって格好良くて面倒見が良くて、何より強い。そんなエースの力強くて大きな掌に憧れた日もあったけれど、今あたしの手首を掴んでいるそれは暴力的で恐ろしいものにしか見えない。エースはあたしの自由を奪った挙句に唇と酸素まで奪っておきながら、今度は物寂しげにあたしの目を上から覗き込んでいる。

「…、悪ィ」
「…順序が逆なんじゃないかな」

 静かな声で謝られても、手首を握る力が緩まないので説得力がまるで無い。壁に縫い付けられた手首を抗議するように動かそうとしてみたけど、やっぱり力は緩まなかった。それどころかもう一方のエースの腕があたしの腰に回って、あたしの体とエースの体がぴったりとくっつく。右手首を握っていた大きな手はイモムシのように蠢いて、恋人同士が手を繋いでいるようなそれになった。ああ、これじゃまるで情事前の恋人同士だ。
 エースが首を俯けてあたしの肩口で溜息を吐く。目を閉じてみると、海と太陽の匂いがした。あの人と同じ匂い。だけど、あの人よりもエースの方が体温が高い気がする。どっちも炎なのに不思議だなぁ。

「これでも、随分耐えた方なんだ」

 高すぎる体温にあの人を重ねかけたとき、エースがぼそりと喋った。あたしは目を開く。たくましい背中、筋肉のついた腕、癖っぽい黒髪。やっぱり今あたしを抱き締めているのはエースだったと、思わず再認識してしまった。

「エースなら、イイ女なんていくらでも捕まえられるでしょ」
「おれが捕まえてェのはだけだ」

 説得にかかるつもりがキッパリと言い返されてしまって反応に困る。そういうセリフも、他の女の子に囁いてあげればいいのに。エースに憧れてる女の子は白ひげ海賊団の看護婦の中にだって沢山いる。さて、この大きなお子様をどうしよう。思わず呆れたあたしの雰囲気を察したのか、すねた子供のようにエースの腕が一層あたしを引き寄せる。遠慮を知らないそれのせいで、あたしは危うくエースの胸板で窒息死してしまいそうになった。

「お前じゃなきゃ、意味がねェんだよ…」

 そんなことを耳元で低い声で囁かれて腰が砕けない女の子がいるなら会ってみたい。既に心に決めた恋人がいるあたしでさえ、今のには頬が熱を覚えた。腰にあった腕がするすると昇ってきて、大きな掌が今度はあたしの後頭部に添う。指先でゆっくりと髪を撫ぜられて、その心地良さに流されかけた自分を必死で取り戻した。しっかりしなきゃ。あたしが流されてしまったら、エースを更に傷付けることになる。
 エースの目を見て話がしたくて、エースの肩を軽く押す。でもやっぱりぴくりとも動かなかったから、仕方なくそのまま喋ることにする。エースの耳はすぐ近くにあるから、言葉が届かないなんてことはないだろう。

「知らない訳、ないよね。あたしには恋人がいる」
「…知らねェな」
「この船じゃ誰もが知ってるよ。あたしの恋人は、一番隊隊長の」
「知らねェ」

 名前を言わすまいとするように、エースの刺々しい声があたしのそれを遮った。なに、それ。聞きたくないことから耳を背けて、知ってることすら知らないふりして。本当に、ただの子供じゃないの。エースに聞こえるように大袈裟に溜息をつくと、エースは押し黙った。少しだけ沈黙が降りてくる。遠くで誰かの足音がした。

「……ウソ。悪かった。知ってる」

 途切れ途切れに発された言葉に、あたしはまた溜息を吐いた。呆れないで欲しいのか、それともウソをついたことに罪悪感を覚えているのか。エースの腕が、またあたしを一層強く抱き締めた。服越しに感じるエースの鼓動が速まっていく。耳元を熱い息が掠めて、少しばかり肩が跳ねてしまった。あたしを抱き締めている、というよりもあたしにしがみついているエースの背をそっと撫でて、宥めるように声を掛ける。

「それなら、どうして」
「どうして?…ンな野暮なこと、わざわざ訊くなよ」

 駄々をこねる子供のような雰囲気から一変、エースの声が不機嫌そうなものになってしまった。圧力を孕んだそれに、一瞬声が出せなくなる。すくんだあたしの肩を嘲笑うようにくつりと喉を鳴らし、エースがあたしから微かに離れた。真上に見上げたエースの顔は、情欲と罪悪感でひどく艶やかだ。
 確かに、言われなくたって分かってる。エースはあたしが好きなんだ。自惚れるつもりも無いけれど、そこまで鈍いつもりもない。事実、マルコとあたしを含む白ひげの一味の9割はエースの気持ちに気が付いていた。…あたしは、エースと出会う前からマルコと恋人同士なのに。
 噛み合った視線を外して、エースがあたしの左手をちらりと見遣る。視線を追わずとも、薬指に光る銀色を見ているのは容易に察せた。再びエースの視線があたしの目を射抜く。今度は何かを覚悟したような、強い光を宿していた。

「でも、これを言葉にしちまったら…もう引き返せなくなる」

 エースの唇が、躊躇うように一度空白を刻んだ。

「…、おれ、お前のこと」
「エース」

 さっきされたみたいに、強く刺々しい声音でエースの言葉を遮った。エースは続けようとした言葉を潔く諦めて、唇を噤んであたしを見る。動揺に揺らぐ彼の綺麗な黒い瞳を眺めていたら、心臓に誰かが爪を立てているような痛みが走った。あたしはこれから、すごく残酷なことを言わなきゃならない。言いたくない。でもあたしが言わなきゃ、なんの意味も為さない。
 随分と力の緩んだエースの右手から、あたしの左手をするりと引き抜く。

「あたしは、マルコが、好きなの。愛してる」

 言葉の分からない幼児に単語を覚えさせるように、はっきりと気持ちを声に乗せた。エースの表情が一瞬にして曇る。あたし、エースのこんな悲しそうな顔知らないよ。どうしよう、あたしは何も悪いことしてないのに、心臓がばらばらになってしまいそうだ。エースを見上げるあたしの瞳に、ぼやぼやとしたフィルターがかかる。鼻の奥がつんと痛んで、心臓が大騒ぎを始めた。
 霞む世界の中で、エースが笑った、気がした。

「お前にそんな顔させたかったんじゃねェんだ。…悪かったな」

 いつも通りの明るい声で言って、エースの掌があたしの頭をぽんと撫でた。くるりと黒が翻って、帽子を被り直しながら広い背中が遠退いていく。どうしてこの人は、そんな分かりやすいウソばっかりつくんだろう。あたしだってエースにあんな顔させたくなかったのに。自分ばっかり強がっちゃってさ。あたしの頭に触れた手がちょっと震えてたの、知ってるんだよ。
 扉が開いて、閉まる音。それから10秒も経たずに、同じドアが再び開いた。エースが帰ってきたのかと思ってびっくりして見てみたら、そこにはあたしの大好きな彼の姿があった。怒るでもなく哀しむでもなく、いつも通りの冷静な表情のままで彼は軽く小首を傾げる。

「…上手な説得だったよい」
「人が悪いよ、マルコ」

 全部聞いてたんだね。そう付け足そうとしたけど、嗚咽に呑まれて消えてしまった。マルコの顔を見て安心した、一瞬でも流されかけた自分に罪悪感を感じた、エースのことを悲しませたのが哀しかった。色んな感情がぐるぐる渦巻きすぎてパニックに陥ったあたしは、ひたすらに顔を俯けてぼろぼろ泣いた。なさけなくてかっこわるいあたしの頭を、マルコの温かい掌がそっと撫でてくれる。

「泣くんじゃねェよい。…お前を泣かせたエースを、殴りに行かなきゃならなくなる」

 エースはあたしが十分に傷付けてしまった。更にマルコに殴らせるわけにはいかなくて、でも涙は止まらなくて、仕方なくあたしはマルコの服の裾をぎゅっと握った。エースを責めないで。あたしの傍から離れないで。あともう少しだけ泣いたら、また笑えるようになるはずだから。


ただ触れることすら、


(Title by 星が水没 | Inspiration by 椿屋四重奏「恋わずらい」 //2009.12.21)