ひとつ。  ふたつ。  みっつ。

 空色を裂いて落ちた水滴はやがて目で追い切れない速さと量になって、空につられて灰色によどんだ海へと吸い込まれて行く。水滴が水面と木の床にぶつかる、大合唱。どこか埃っぽい雨の匂いが鼻を掠め、頭のてっぺんに注いだ雨水が顔の真ん中を大胆に流れて顎まで伝った所で、わたしは漸く現状を把握する。

 雨だ。豪雨だ。土砂降りだ。"新世界"にしては珍しく風の無い、ただの雨だ。珍しいこともあるもんだなぁ、なんて思いながら、空になった洗濯籠をぶらりと揺らして雨水の流れる床を歩く。2歩だけ歩いてから、何かが引っかかって立ち止まってみた。なんだろう。忘れ物?何かがおかしい。木で出来た洗濯籠が少しだけ水を吸って濃い色になっている。…洗濯籠?………あ。

「洗濯物…っ!」

 そうだ!こんな雨の中じゃ、さっき干してきた洗濯物、全滅じゃないか!あまりにも突然、当然のように降り出されたものだから思考が全く追い付いてなかった。どうしよう!洗い直しとか、超めんどくさい!大慌てで華麗なバック・ターンを決めて走り出すと、洗濯籠がぐわん!と揺れた。足元でびしゃりと水が爆ぜる。服は既にわたしの体に貼り付き放題で、今日は白いシャツ着てなくて良かった、と思った。白だったら今頃すっけすけだ。ブラとか体系とか肌色とか、色々。エース隊長とかマルコ隊長とかが全力で冷やかしに来るに違いない。それだけは勘弁だ。洗濯物の洗い直し以上にめんどくさい。

 そしてわたしは洗濯物を干した場所に辿り着いてから、もう一度同じことを思うのであった。

「おっ、いいところに来たな!籠貸せ、籠!」

 本当に、白いシャツとか着なくて、良かった!自分自身の勘の良さにちょっとだけ鳥肌を覚えながら、雨でびっしゃびしゃになった洗濯物を両腕に抱えて走ってくるエース隊長に籠を差し出した。エース隊長は腕の中の洗濯物を籠に入れて、わたしの手から籠をひったくると、わたしの頭に大きな掌を乗せてにっこり笑う。こんな雨の中なのに、エース隊長の笑顔はまるで太陽みたいに晴れやかで明るい。

「雨の当たんねェとこでちょっと待ってろ。今全部取り込んで来るからな」

 晴れ晴れとした笑顔と、心地良いぐらいに軽やかな声。それに加えて頭に触れる体温がわたしを更にぼーっとさせてしまって、危うくエース隊長の言葉の内容を聞き逃す所だった。エース隊長の優しさは本当にさりげなくて、助けられていることに気付くのが遅れるほど、なのだ。洗濯物乾しは今日わたしの当番なんだから、わたしがやらなきゃいけない!咄嗟の判断で、綺麗な水しぶきを飛ばして踵を返したエース隊長の腕を、慌てて両手で捕まえる。

 エース隊長はびっくりしたみたいだ。走り出そうとしたその姿勢のまんまで、こっちを振り返って大きくまばたきをする。そのまばたきした黒い瞳をしっかり見上げて、眉を吊り上げてみせた。雨に冷やされてるはずなのに、エース隊長の腕はあったかいを通り越して熱い。こういう体温も、やっぱり能力とかと関係があるのかも知れないと思った。エース隊長の能力は、炎。その身さえも炎に変える彼は、元々人の形をしているだけの炎なんじゃないかと私は思うことがある。

「…あの、隊長、わたしの、…仕事、なので!」

 雨が口の中に流れ込んできた。埃っぽいその味が嫌で、言葉を小刻みにしてなるべく口を開かずに喋る。エース隊長はそんなわたしの言葉に動じるような様子は一切見せず、あの太陽みたいな笑い方でもう一回笑った。やめてほしい。ただでさえ雨に濡れた黒髪が艶っぽく額や首筋に張り付いていて妙な色気を纏ってるのに、至近距離でそんな顔をされるとわたしの頭の中がお花畑になってしまう。…いや、時既に遅し、ってやつなのかも知れない。

「ああ、いいよ。おれがやる。気にすんな」

「気にします、って!」


 さら、っと言い放ったエース隊長に、少しばかり語調を強めて反論してみた。効果は、ちょっとだけ、あったらしい。エース隊長は晴れやかな笑みを一変、困惑顔に変えて、言葉でも探すかのようにうろうろと視線を彷徨わせた。だからわたしも視線を下げて、目の中に入った雨を瞬きで追い出す。すると目の前にエース隊長の肉体美があって、思わず変な声を上げそうになってしまった!うわあ、どうしよう、意外と近距離だ。必死だったから、意識してなかったけど。一度床まで下ろした視線を、恐る恐るエース隊長の体へと向け直す。エース隊長の鍛えられた体はすごく強そうに見える。でも、こんな風に冷たい雨に打たれ続けていたらさすがに寒いんじゃないだろうか。

「濡れた服は体温を奪うんだ。着てないおれならまだしも、お前は風邪引いちまうだろ」

 やっと言葉を見つけた、とばかりにエース隊長がハッキリとした声音で言う。見上げると、どうだ!言い返せまい!とばかりの悪戯な顔。確かにそれは的を得ている、けど…。わたしは自分の体にぴったりと張り付いてしまった黒のTシャツを少しばかり指先で引っ張りながら、小さく首を傾げてみせる。エース隊長もつられたみたいに首を傾げる。黒猫みたいで、かわいい。

「…じゃあ、脱いだら…いいんですか?」

「脱いだらダメだろバカ!お前に恥ってモンはねェのか!」


 ほんの冗談のつもりが、エース隊長にすごい剣幕で怒鳴られてしまった!思わず肩が震えてしまう。

「うっ!?…や、あります、けど…!」

「じゃあ脱ぐな!大人しくおれに任せとけ!」


 そんなことをなんだか妙に真剣に言われてしまっては、冗談ですよ頼まれたって脱ぎません、なんて言えなくなる。ああ、これじゃまるで、わたしただの変態さんじゃない!そんなに軽い子だとは思われたくないのに。特に、…エース隊長には。思った以上の彼のリアクションにすごくびっくりさせられたわたしは、おろりおろりと視線を雨の注ぐ海へと泳がせる。今度はわたしが言葉を探す番だ。服をつまむ指先は冷たい。サンダルを突っかけた足は、冷えを通り越して感覚が無い。

「…それだったら、なにか…お手伝い、させてください」

 なんとかひねり出した言葉が、それだった。家事手伝いをするということは、特に力が強い訳でも戦う術を持つ訳でもないわたしの、存在証明なのだ。皆がいつだって全力で戦えるように。少しでも、快適に航海ができるように。だからこの船の主戦力である彼に苦労をかけてばかりなのは、いやだ。じっ、と、エース隊長を真剣に見つめる。なんでもいいので、申し付けてください、お願いします。そんな、どこか言葉を請うような思いで。エース隊長は言葉を探す、かと思いきや、まるでこうなることが分かってたみたいに、笑った。太陽みたいな感じでも、悪戯っぽい感じでもない。小さな猫でも愛でるような、優しい優しい笑い方、だ。エース隊長の大きな掌が、ぺたりとわたしの頬に張り付く。体温を忘れかけていた頬に彼の体温は痛いほど暖かい。

「……それじゃ、これが終わった後、おれを暖めてくれ」

 上からわたしを見下ろして、静かな声でそう言われた。拍子抜けして、変な声が出てしまう。

「へ?…そんなので、いいんですか?」

「その言葉、承諾と受け取るぜ。…約束だぞ、絶対だからな」


 間抜けな顔をしたわたしに、念を押すようにエース隊長が迫力のある声を出す。エース隊長、あなたの能力なら暖めるとかそういう世話は必要なくないですか?っていうツッコミはものの見事に封印された。にやり、と弧を描いた唇を目にしてしまっては、そんなツッコミを口に出せるわけが無い。なんだか企みすら透けて見えそうな言葉を承諾するのは気が引けて、曖昧な言葉を連ねてみることにする。

「そ、そんな頑なに言わなくても…」

「ホラ、。返事は?」

「あ、っ、はい!」


 まるで断るなとでも言いたげなそれに、わたしは何度も頷いた。今の、完全に隊長が隊員を威圧するような声だった。卑怯だよ。そんなの頷かずにどうしろっていうの!そんな圧迫しなくても、わたしはエース隊長の頼みなら何だって断らないのに。…この場で脱げ、は流石にムリだけど。せめて、今の言葉に裏打ちされてるっぽいエース隊長の本心が見えたら、安心して承れるんだけどなぁ。そっと零した溜息を合図にしたように、エース隊長の掌が離れて行く。消え行く体温に、頬を伝う雨はこんなに冷たかったのか、なんて思い知らされる。

「よろしい。それじゃ、着替えておれの部屋で待ってろ」

 更に深まったエース隊長の笑みに、直感は確信へと変わる。絶対、なにか、企んでるよこの人!異議と不信感をそのまま視線に乗せてじとりとエース隊長を見つめたままで彼の腕を解放すると、彼は早速踵を返して、濡れた洗濯物が重々しくはためく中へと走って行ってしまった。そうやって素早く行動をされてしまうと、なんだかこっちまで急がなきゃいけない気がしちゃうのが下働きの性である。わたしは随分と身軽になった体をぐるりと反転させて、顔面に向かってくる雨もぐちゃぐちゃになる髪も気にせず船室へと走り出した。えっと、とりあえず着替えて、お風呂入れて、あったかいココアとか用意して…。頭の中はいかにしてエース隊長を暖めるかでいっぱいだ。きっと今のわたしは深刻な顔で雨の中を疾走する鬼の如き形相をしてることだろう。

「…暖めてくれ、の意味…分かってねェよなァ、絶対」

 エース隊長の笑いを含んだその呟きは、雨音に流されてわたしの耳には届かなかった。




土砂降りに浸かるラプソディア

(ぜんぶ、ぜんぶ、雨の冷たさのせいにして)




(ワンピース夢企画サイト"メリッサ"さまに提出!遅れてすみませんでした…!//2009.09.03)