仕事柄、人の沈んだ表情を見ることはざらにある。
 しかし今日の現場は中々こたえたなと、笹塚は自分の体を滑り落ちて行くシャワーの湯を目で追いながら薄ぼんやりと思った。ざあざあと途切れることなく室内を満たす音が心地良く、そっと目を閉じて思考を事件へと傾けてみる。

 被害者は母、長女、長男の3名。第一発見者はその一家の父。容疑者は近隣に住まう独身男性。世間の人々ならばニュースで目にしたとしてもすぐに忘れ去るだろう、ありふれた殺人事件。けれど現場に着いたとき、血まみれのリビングをただ呆然と見つめていた男の背中に微かに自分を重ねてしまったせいか、あの現場の赤色が脳裏に染み付いて離れない。いや、この赤色はもしかしたらあの現場のものじゃないのかも知れない。10年前から変わらず自分を襲う悪夢の、赤くて、しかくい、血に濡れた、

 そこで笹塚は、ほぼ無意識にシャワーを止めていた。

 途端に止んだ流水音。ぴちょん、ぴちょん、と緩やかに水滴の落ちる音で、速やかに思考が冷めていく。他所様の事件で自分のトラウマをほじくり返してどうする、そんな自虐的な趣味を持った覚えは無い。ただ、ああやって唐突に大切なものを奪われる喪失感も痛みも十二分に味わったものだから。つい、同調してしまっているだけなのだと。自分に言い訳でもするかのように思考の隅で唱えてから、笹塚は薄靄のかかったバスルームを後にした。
 そして濡れた髪を大雑把に拭いながら、笹塚は小さな舌打ちを零す。
 同調してしまったということはつまり、奪われたくない大事なものがまた新たに出来たということになる。


 その晩、笹塚は夢を見た。いつも通りの、あの悪夢だった。
 リフレインする電話越しの妹の声。耳を塞ぐこともできぬまま、上へ下へと大きく歪曲した廊下を淀みない足取りで、ゆっくりとリビングルームに向けて歩いていく。ぎしぎし、みしみし。景色の歪む音がする。やがて自分は扉の前に辿り着く。視界に自分の手が映り、それはドアノブをそっと握る。
 やめろ。やめてくれ。見たくない。
 必死の願いとは裏腹に、その手はドアノブを下げ、あっさりと扉を開いてしまう。生臭さの混じった鉄の匂いが鼻を刺す。明るい廊下から暗い室内へと、四角い光が縦長に広がった。そこに立つ自分の影は頼りなく細長い。

 しかしその先に広がる光景が、いつもと違っていた。

 いつの間にか夢の中の自分は現実の自分と同じ少しくたびれたスーツを着ていた。
 昔の夢ばかりを見ていた所為か、笹塚は唐突すぎる場面の転換に付いていけず目を瞬いた。
 暗い部屋は血に濡れたリビングルーム…などではなく、刑事になってから住み始めた無機質な自室。一人暮らしらしくそれなりに散らかっており、捜査資料がテーブルの上に山積みになっている。
 そしてそこで漸く窓際に立つ人物の存在に気がついた。自分よりも幾分か小柄なその人影は薄暗い部屋の中、自分の方を向いて立っている。笹塚は、“彼女”のことを知っていた。見間違える訳が無かった。それからこれが自分の悪夢であることを思い出し、この先に起こるだろう最悪の展開を想定した。

 彼女が、箱に、されてしまう!
 
 笹塚は焦り、部屋の中に足を踏み入れようとする。しかし膝から下がまるで銅像にでもなってしまったかのように動かない。腕を伸ばせども届かない。そうなれば、笹塚の願いはたったひとつになる。頼む、逃げてくれ、この部屋に居ちゃいけない、もう何も失いたく、ない。

 笹塚の視線の先で、彼女の腕がそっと動く。
 彼女の手は、カーテンを握り。
 勢い良く、それを引いた!

 途端、暗かった筈のカーテンの裏から光が溢れた。
 テーブルの上の捜査資料が吹き抜けた風で飛び、全く動かなかった筈の足はうろたえるように二歩ほどふらつきながら後退した。真っ白な光の中で、彼女は笑っている。やがて彼女の顔さえも光に覆われ、視界は真っ白になり、


 そこで、瞼が開いた。

 寝覚めにもかかわらずスッキリとした視界の先で、夢と同じ彼女が夢と同じようにカーテンの端を持って、夢と同じように笑っている。笹塚は最初、ごく自然にこれは夢の続きだろうと思った。しかし嗅ぎ慣れた煙草の匂いと確かな陽射しの温もりで、その考えを直ぐに打ち消した。どうやら自分は、目覚めた、らしい。
 ベッドに体を埋めたまま瞬きを繰り返す笹塚の顔を覗きこみ、彼の意識を確かめるように彼女はひらひらと手を振って見せた。彼女の背景には夏らしい青空が広がり、白い雲が途切れ途切れに浮いている。

「笹塚さん!もうお昼ですよー!」

 彼女は晴天に良く似合う明るい声で言い、それから笑い方を少しだけ悪戯なものへと変えた。

「…びっくり、しました?」

 にこーっ!と歯を見せて笑んだ後、笹塚の反応を待たずに彼女は後ろを向いてカーテンを纏め始める。中途半端だったカーテンが完全に開き切り、いつも薄暗い笹塚の寝室には光が溢れた。ベッドのシーツで陽射しが跳ね返るのを見て、そういえばこの部屋のベッドが白かったことを笹塚は改めて認識する。

「なんで部屋に?とか訊かないでくださいね。
 わたしに合鍵を渡したのは笹塚さんの方なんですから」

 彼女は手際よくカーテンを纏めながら、笹塚に背を向けたままで声をかける。その言葉で、笹塚は驚きと動揺と眠気で鈍りに鈍った頭を稼動させて記憶を手繰り寄せる。そういえば、彼女に鍵を手渡したのは先週の月曜のことだったか。時間通りに帰れない自分を家の前で待つ彼女が、あまりにも無防備だったから。せめて家に入っててくれ、とかなんとか言った覚えがある。
 やがてカーテンが完全にまとまり、青い空が笹塚の視界いっぱいに広がる。狭いベランダへと続く大きな窓は、青空を切り取る額縁のようだ。その前で手をぱんぱんと叩き、満足げに笑う彼女もまた、絵の一部のようで。
 中途半端に体を起こした笹塚は、彼女の手首を静かに掴むと些か強引に引き寄せた。

「ほら、良い天気です、っよ!?」

 驚きで彼女の語尾が跳ねた。そんな小さな反応さえ愛おしい。
 ベッドの上に引きずり込むようにして抱き寄せれば、今度は彼女の肩が跳ねる。恐らく自分の吐息が彼女の首筋に触れたせいだろう。そうと分かりながら、笹塚は更に彼女の首筋に顔を埋めた。

「えっ!!さっ、さ、さささ…さっ、ささづか、さん…!?」
「………」

 こうなることも、初めてじゃないだろうに。相変わらず裏返った声で可愛くない悲鳴を上げ、自分の名前を呼ぶにも噛みまくる彼女が素直に可愛いと思えた。いつか「子供のようだ」と例えて怒られた彼女の少し高い体温は、今しっかりと腕の中に納まっている。彼女の呼吸の音がする。少し早まった彼女の鼓動が伝わる。それらが全て、これが夢ではないと、教えてくれている。

「…寝惚けてるんですか?」

 黙ったままの笹塚に、少し落ち着きを取り戻した彼女が問う。
 笹塚は夢の最後の場面を思い出しながら、いつも通り適当な答えを紡ぐ。

「……じゃあ、そういうことにしといて」

 いくら本心から思っていることとは言えど、今いきなり「出口をくれてありがとう」なんて言い出したら無用な心配を煽ることになりそうだ。彼女は笹塚の本心には気付かず、単純に彼の言葉を鵜呑みにする。そして呆れにも似た吐息のような笑みを零してから、そっと首を捻った。ベッドサイドの時計を見ているのだろう、と笹塚は思った。

「昼前に出かける約束、忘れてました、よね?」

 そう言われてから、笹塚の脳が再びゆっくり稼動を始める。
 確か、一昨日の晩、だった。自分は確実に、海を見に行きたいと言う彼女にドライブの約束をした。
 彼女と同じ方向へ首を捻れば13時24分の表示。約束の昼前を既に大きく通り越している。

「ああ、そうだったな。…悪い」
「いいですよ、次の休暇のときで。今日はこのまま、ゆっくり過ごしましょうか」

 怒るでも拗ねるでもなく、彼女はあっさりと笑って見せた。
 彼女は笹塚の仕事がひどく忙しくて慌しいものだということを理解している。ゆえに、恐らく笹塚がこうして寝坊するのも日頃の疲れの所為だろう、と思ったのだ。
 彼女のそういった暖かい優しさに、笹塚はいつも救われている。それどころか、今回はいつも苛まれるばかりだった悪夢の中からも助け出されてしまった。

 いよいよ、彼女を手放せる気がしない。


「なんでしょう?」

 好きだ、なんて。たまには素直なことを言ってみようと、笹塚は唇を薄く開く。さて、この子はどんな新鮮な反応を見せてくれるだろう。いつも期待を良い意味で裏切ってくれるから、自然と期待を寄せるようになってしまった。
 彼女の反応を楽しみに、笹塚はその言葉を、そっと声に乗せた。


真昼に昇る月



(笹塚さん/カーテン/昼間、とのお題から。千晴!ありがとう!)
(2011.08.03)