壁を背にして自分を見上げるの表情を、笹塚は無表情のまま見下ろしていた。
 彼女の瞳は震えている。逃げ道を塞ぐように彼女の顔の横に手を突いてやれば細い肩がびくりと跳ねた。懸命に自分を見上げ続けていた瞳は圧力に耐え切れなくなったかのように、そろりとその視線を地面へと逃がす。伏した瞼を彩る睫を視線でなぞりながら、笹塚は冷め切った頭で改めて理解する。
 ああ、は怯えているのか。俺に。

「怖い?」

 低い声で囁くように問いかけるとの瞳が反射的に笹塚の顔を再び見上げた。何か言いたげに唇が微かに動くけれど、それが言葉を紡ぐことは無い。しかしそこで言葉を催促するでも何かを切り出してやるでもなく、笹塚はただただ黙っての唇を見つめ続けた。彼女の唇が沈黙に耐え切れず、何かを零すまで。

「どう、か…したんですか」

 が選んだのは差し障りのない無難な言葉だった。
 笹塚はそれを突っぱねるようにして返す。

「どうもしてねーよ」

 どうにかして喉から搾り出した言葉は目の前で即座に切り捨てられてしまった。は再び降りて来た沈黙の重さに耐え切れず、笹塚の瞳から視線も逸らせぬままに再び当たり障りの無い言葉を必死で記憶の中でかき集めた。目の前の彼を刺激しないような、でも、何か、この状況を把握できる答えをもらえそうな言葉を。
 まず、どうしてこうなっているのかがには分からない。仕事から帰ってきた彼を玄関で迎えた途端に壁に追い詰められ今に至る。何か失言をした覚えも無い。だからこそ不安が加速する。呼吸が震える。ただ普通に息を吸って吐くだけの何億回と繰り返してきた動作が、今だけはひどく難しいことのように思える。声まで震えそうになるのを懸命に抑えて、は再び声を搾り出した。

「今日、なにか、イヤなこと…でも?」

 の不安そうな声音に笹塚は目を細める。脳裏を掠めた赤色の光景は今日見てきた現場のものか、それとも毎晩自分を苛み続けるあの日の悪夢か。腹の中で息を潜め続けていた黒い感情が、ゆるやかに肥大化していく。笹塚の微かな表情の変化にが双眸を丸めるよりも早く、笹塚が身を屈めた。

「…なんもねーよ」

 低く小さな声でそう告げ、に答える間も与えずにその唇を自分のそれで塞いだ。にはそれがいつもの暖かくて幸せなそれではないように感じられて、思わず閉じた瞼を瞬間的に開いた。冷たい、押さえつけるような、息苦しい口付け。唇を介して彼の抱えている不安のようなものが伝わってくる気がして、は笹塚の肩を軽く押し返した。笹塚は素直にそれに応じる。

「さ、さづか…さん…?」

 至近距離で覗き込んだ彼の瞳の奥が余りにも仄暗くて、の首筋にぞくりと寒気が走った。いつか美しいと思った白い瞼も色素の薄い瞳も、何故だか別の人のように思えて恐ろしく思えてしまう。
 の瞳がぐらりと恐れに揺らいだことに気が付き、笹塚は内心で舌打ちを零しながらから顔を離した。彼女は自分が思っているよりも格段に、鋭い。自分の内側、奥底にあるどろどろした部分に気付かれる訳にはいかないと冷静に考え―既にその片鱗には触れられてしまったかも知れないが―彼女の逃げ道を塞いでいた腕を退ける。
 それでも彼女は、そこから逃げ去ろうとはしなかった。

「…の知ってる俺が、どんな男かは知らないけど」

 とどめを刺すように、笹塚は言葉を続ける。 

「俺はあんたが思ってるほど、キレイなオトナじゃない」

 きっぱりと言い捨てて、恐らく自分への失望に淀むだろう彼女の瞳から目を逸らす。横顔に張り付いて剥がれぬ視線には気付かないフリをした。

「…電車、無くなる前に帰りなよ」

 きし、とフローリングの廊下を僅かに軋ませながら笹塚は短い廊下を歩み、ダイニングルームへと向かってしまう。どうにかして引き止めなければ!とは壁から背を引き剥がし、彼の広い背中にかける言葉を必死で考えた。…けれど、考えれば考えるほどあらゆる言葉がするすると思考の端から逃げていくようだった。本当は、キレイじゃないとかそんな難しいこと関係なくただ笹塚さんが好きなんですと伝えたいだけなのに。彼の放った冷たい声音が、からあらゆる勇気や希望を取り上げてしまったようだ。笹塚はダイニングルームのソファに脱いだ背広をかけ、ネクタイを緩めながら背後で動かぬ気配に声をかける。

「………俺が怖いなら、逃げりゃいいだろ」

 たっぷり沈黙した後の笹塚の言葉に、は驚き目を見開く。それから漸く見つけた会話の糸口に飛びつくような勢いで声を発すれば、それは思った以上に凛と響いた。意外にも、声は震えなかった。

「全然、怖くもなんともないです。逃げる理由がありません」
「怯えてたろ」
「驚いただけです!」

 咄嗟に言った後、なんと幼稚な言い逃れだろうとは少しだけ後悔した。いつもと違う笹塚の様子に怯えたのは事実だ。けれど、それを認めるわけにはいかない。それを認めたら、じゃあ帰れと言われるに決まっている。

「…勝手にしなよ」

 笹塚の発した冷淡なその一言で、の中の何かがぷっつりと音を立てて切れた。
 それと同時に、ごちゃごちゃと理屈で考えることを放棄した。

「じゃあ勝手にします!」

 彼がそう言うのだから、お言葉に甘えてやろうじゃないか!
 そう思えば竦んでいた足にも力が戻り、は読んで字の如くズンズンと、大股でダイニングにある笹塚の背中へと歩みを進めた。笹塚がこちらを振り向く。呆れた顔をされている。そんなことだって構うものか。わたしは今、勝手なことをしてもいいと言われたも同然なのだ。
 腕を広げて、がばり、と。華奢に見えて意外としっかりしている笹塚の身体を、は力いっぱい両腕で抱き締めた。笹塚の呼吸が一瞬だけ詰まる。思わず普通に驚いてしまうも、そんな笹塚の表情をが知る由もない。まるで幼子のようにYシャツに顔を埋めるの頭を見下ろして、笹塚は深い深い溜息を吐いた。
 やがて、の髪を笹塚の指先が撫でる。
 きっと石垣さんへの扱いみたいなウザがられ方をするだろうなと内心ビクビクしていたには、その優しい感覚は些か意外なものだった。しがみ付くように背に回していた腕の力を、少しだけ緩める。

「俺と一緒に居ても、幸せにはしてやれないよ」
「そんなの笹塚さんが決めることじゃないです」

 それなりに真剣に紡いだ筈の言葉に帰ってきたのは、拗ねた声での即答だった。返答に困りながらもほとんど無意識に彼女の髪を梳いている自分の指先に気が付いたとき、笹塚の顔には苦笑いじみた表情が滲んだ。
 彼女に触れたいと望むこの指先は、復讐の為に研いできたひとつの武器でもある。

。…あんたには、幸せになって欲しいんだけど」
「わたしは幸せです」
「それだって分からない。諸行無常って言うだろ」

 気持ちなど移り行くものだ。自分から離れさえすれば、やがて彼女だって自分を忘れて新たな恋に出会うに違いない。それで彼女が幸せになれるなら。自分には叶えられないことを、誰かが叶えてくれるなら…なんて、そこまでロマン溢れることは考えていないけれど。彼女の幸せを願いたいとは、本当に心から思っていた。
 が今にも泣き出しそうな顔で、笹塚を見上げるまでは。

「笹塚さんが傍に居るなら、ずっと、しあわせです」

 今までの威勢はどこへやら。弱々しい声で懇願するようなそれは、笹塚に強い強い衝撃を与えた。笹塚は言葉を見失い、の濡れた瞳から視線が外せなくなってしまう。彼女の頬に手を添えれば、ぽろりと零れた涙が笹塚の手を伝った。
 どうしようもなくこみ上げるこの気持ちの名前を、笹塚は知らない。ただ、珍しく理性を押し退けた本能に従って、の細い身体を力いっぱい抱き締めた。
 緩やかに伝わってきた笹塚の体温に、何故かの涙は更にぽろぽろと零れだしていく。笹塚の肩口に顔を押し付けて嗚咽を押し殺すので精一杯だった。

「…、…あんた、馬鹿だろ」

 掠れた笹塚の声に、は静かに首を振る。

「信じてください、笹塚さん」

 わたしは、ずっと笹塚さんの傍に居ますから。
 声にすることが出来なかった部分を、彼の身体を一層力強く抱き締めることで表す。
 笹塚はの首筋に顔を埋めたまま何も言わない。

 必死に抱き締めたその体温を、ずっと近くで感じていたいと想った。



甘くない部分まで教えて
(少女は、恋とは甘いだけではないのだと知りました)


(20万企画作品&純情ごっこ#3、月折廉さまへ//2010.08.02)
(タイトルはハーケクロイツさま、純情ごっこより)
Inspilation By “化身”:ふくやままさはる