「夜分遅くにすみません、こんばんは、笹塚さん!」
「………」

 玄関から顔を覗かせた笹塚さんは、わたしの姿を見るなり俯いて深々と溜息を吐いた。完全に呆れられてるのは一目瞭然だけど、笹塚さんに会えたってだけでわたしは有頂天なのでそんなこと気にしない。どうぞ呆れてください、笹塚さん!そのままちくしょー目が離せないぜってなってくださって結構ですので!
 締まりの無い顔でへらへらりと笑いながら笹塚さんを見上げていたら、笹塚さんがやっと顔を上げてくれた。

「…ちゃん…どうしたの?」
「いや、それが大変お恥ずかしいんですけども。終電を逃してしまって」

 時計の針は1を指し示している。勿論、真夜中の1時だ。笹塚さんはやっぱり呆れてるようで、色素の薄い綺麗な目をそうっと細めて私を見た。いやいやそんな目をされましても、わたしだってワザと電車を逃した訳じゃなくて…こう、色々な事情があってこうなってしまったのであって。その辺も説明したいところなんだけど、言い訳がましいので全部飲み込むことにする。なんにせよ、無事に笹塚さんに出会えたので結果オーライだ。

「とりあえず、上がりなよ」
「あ、はい!お邪魔します」

 笹塚さんが溜息混じりに言う。なのでわたしはお言葉に甘えて、笹塚さんの部屋にお邪魔することにした。実は夜道をずっと歩いてきたせいで踵がパンプスにすれてすごく痛かったんだよね、ってやっぱり擦り剥けてるし血が出てるし!脱いだパンプスを丁寧に揃えてから、慌てて鞄をあさって絆創膏を探す。どこに仕舞ったっけ。確かポーチの中に……無い。じゃあ手帳だっけ。確かこれに挟んでた、ような…。

「靴擦れ?」
「ひええ!…お、おどかさないで下さい、笹塚さん!」
「ここ、俺んちなんだけど」
「…そうでしたね」

 あまりにも笹塚さんが音も無く気配も無く背後に立つものだから、私は情けなくもびっくりしついでに手帳を落としてしまった。それをしゃがみ込んで拾って立ち上がると、それと入れ替わりするようなタイミングで笹塚さんが屈んだ。笹塚さんの視線が、じっ、と踵に注がれる。すみません、笹塚さん、そんなに見つめられてしまうと不謹慎にも踵が赤面しそうなんですけど。

「…もしかして、ここまで歩きで来た?」
「……え?」
「それも、結構な距離だったろ」

 刑事さんの洞察力はこんなところでまで発揮されるらしい。踵の怪我見ただけでそこまで分かるなんて、さすが敏腕の刑事さんだなぁ、だとか感心してしまう。笹塚さんの冷たい指先がそっと踵に触れて、傷口のまわりをするりと滑る。くすぐったい。それから笹塚さんが立ち上がって、わたしの頬にぴったりと大きな掌を添えた。いつもは冷たく感じるそれが、すごく暖かくて熱いぐらいに感じる。それが心地良くて目を細めたら、笹塚さんがぽつりと零す。「…やっぱり冷えてる」そりゃ、夜の風はとてもとても冷たかったですから。あなたに会えたのでもう何も寒くなんかないですけどね!
 能天気なことを考えていたら、笹塚さんがぐっとわたしの手を引いた。びっくりしてバランスを崩しかけたけれど、どうにか持ち直して笹塚さんに引き摺られるようにして廊下を進む。漸く立ち止まったのは、ソファの傍。

「座って」
「……あの、」
「消毒しとかねーと。絆創膏貼っても治りが遅くなるだけだろ」

 わたしの声を遮って、笹塚さんが正しい意見を述べる。わたしは何も言い返せなくなってしまった。どうやら今のわたしには大人しくソファに座る以外の選択肢は無いように思われたので、それの右端にそっと腰を下ろす。2人で座るには広くて、3人で座ると窮屈なソファ。相変わらずテーブルの上には資料が散乱していて、でも最初にここに来たときよりは全然片付いているような気がした。少なくとも、空き缶とか転がってないし。
 寝室の方へと消えた笹塚さんが、マキロンを持って帰って来た。テレビ台からティッシュをケースごと攫いながら、笹塚さんがわたしのところまでやってくる。だけど笹塚さんはわたしの隣には座らずに、わたしの足元の床に跪くようにして座り込んだ。うわわ、笹塚さん、それすっごい王子様っぽいです素敵ですミスマッチだけど!消毒液を持った王子様は、ティッシュにそれを染み込ませるとわたしの怪我にそっと当てた。それは、ひどく、しみた。

「連絡くれりゃ、迎えに行ったのに」

 わたしの心を読んだみたいに、笹塚さんが王子様みたいなことを言う。わたしは思わず笑って、首を横に振る。

「充電が無かったんです」
「……それなら、せめてタクシー拾うとか」
「お金がありませんでした」
「運転手待たせといてくれりゃ俺が払うよ」
「だめですそんなの!そこまでご迷惑はお掛けできません!」

 笹塚さんがあまりにも優しすぎることを言うのでびっくりして大きな声を上げたら、笹塚さんを驚かせてしまったようだ。ぱちくり、と瞬いた笹塚さんの目を見てから我に返り、慌ててすみませんと頭を下げる。だってこの人は当然のことのように優しいことをするから、このままではわたしが幸せボケして彼の優しさに甘え放題になってしまう気がする。それだけはだめだ。甘えてばっかじゃいけない。俯いたわたしを、笹塚さんが下から見上げる。笹塚さん、上目遣いになってますよ。押し倒されたいんですか。

「…まぁ、何事も無かったみたいだから良いけど」

 笹塚さんが、またわたしの傷を消毒する作業に戻る。 

「夜道をひとりで歩いてきたって聞いて、正直、焦ったよ」

 笹塚さん、それ、大事件ですよ。聞いたことが俄かに信じられなくて、わたしは笹塚さんの唇を凝視してしまった。笹塚さんを知らない人にとってはこれのどこが大事件なのか分からないと思うけど、笹塚さんが焦って、それを明言する辺りが半端じゃなく稀少なので大事件なのだ。しかもその要因が、わたし、って。どうしよう笹塚さん、そんなこと言われたら尚更甘えたくなっちゃうじゃないですか。

「ごめんなさい。…突然押しかけて、お世話になって」

 真夜中に突然来たわたしを呆れながらも受け入れてくれて、怪我の手当てをしてくれて、心配までしてくれる。なんて優しい人なんだろう、なんてわたしは馬鹿なんだろう。自分の軽率さが今更になって恥ずかしい。頭を垂れて落ち込んだ顔を隠そうとしてみるけど、笹塚さんの座っている位置がそうさせなかった。傷口からティッシュが退いて、すーすーする。

「いや、丁度良かった。…っつーのも不謹慎だけど」

 笹塚さんが立ち上がりながら不思議なことを言い出した。不謹慎なのはむしろわたしのほうですよね笹塚さん。言葉の意味が汲み取れず、わたしは頭上にクエスチョンをいっぱい広げてしまいながら顔を上げる。笹塚さんはお辞儀をするように身を屈めて、あっと言う間に目の前が暗くなった、と思ったら、唇に生暖かな温度を感じていた。微かに煙草の匂いがする。それはすぐに離れてしまったけれど、今ので何が起きたのか分からないほど鈍いわたしじゃない。
 ま、まままま待って笹塚さんこれどんな不意打ちですか!あまりにも俊敏だったその一連の動作に、わたしは呼吸は愚か瞬きさえ出来なかった。近い距離を保ったまま、笹塚さんが唇を開く。

「最近、会えてなかったよな」

 笹塚さんは、卑怯だ。この台詞を会った瞬間には言わずに、このタイミングまで取って置くなんて。こんなことをそんな優しい声で言われて落ちない女の子がいるわけない。もっとも、わたしは既に笹塚さんに落ちるどころか深みに填まっているので、更に深みに填まって笹塚さんに一層恋をするってだけなのだけれど。…だとすると、わたしはこの人に会う度に恋をしている気がする。飽きもせず、何度も何度も。どんどん、笹塚さんが好きになる。

「…笹塚さんのことが、好きすぎて死にそうです」

 潤んでぼやける視界。熱を覚える頬。その向こう側で、笹塚さんがちょっとだけ笑った気がした。

「可愛いな、あんた」

 こうしながらもマキロンを握り締めたままの笹塚さんの方が可愛いですよ。なんて冗談めかした子供のような台詞を言うのは、笹塚さんの唇がわたしの唇を解放してからにしよう。



 ( そばにいてください )



(ネウロ夢企画さまへ提出した作品。笹塚さんが好き過ぎた結果こうなった。//2009.10.26)