笹塚衛士さんは、警察の方です。少し色々あって知り合うことができ、今こうして勉強のお付き合いをして頂けるぐらいの仲にはなることができました。彼はオトナです。オトナ以外の形容詞が思いつかないほど、オトナです。それは彼が難しい誌面の新聞を淡々と読むからでもあり、いつも煙草の匂いがするからでもあり、その背中がとても広いものであるからでもあります。でも一番は、その思慮深さと冷静さによるものでしょう。彼はいつも理性的で、わたしは彼が取り乱すところを見たことがありません。だから、わたしの悪戯心はむくむくと頭を擡げたのです。(彼を一度でいいから、ぎゃふんと言わせてみたい!)

 笹塚さんは、わたしが今しがた解き終えた英語の問題を視線で点検します。伏せられた睫は長いというほどでもないけれど、白い瞼は不思議ときれいなものでした。それがすっとスライドして、色素の薄い眼がわたしを見ます。わたしは余りにも不意打ちだったそれに、妙な声を上げました。笹塚さんは、ゆっくりと瞬きをしました。

「……ちゃん、大丈夫?」
「はい、いえ、だいじょぶです」
「それならいいけど。ここ、間違ってるよ」


 はい、なのか、いえ、なのか。言いながら自分でも分からなくなりましたが、とりあえず大丈夫だということは文末で笹塚さんに伝えられたようです。わたしは小さな溜息を吐いて、笹塚さんの指が指し示す場所へと視線を移動させました。笹塚さんの指が、とんとん、と紙の上でリズムを刻みます。わたしは、紙に嫉妬したくなりました。わたしも笹塚さんの指に撫でられたいものです。

「なんで間違ってるか、分かる?」
「…分からないです」


 本当は、分かっていました。そこに置くべきは過去分詞ではなく現在分詞なのです。ですが、こう言えば笹塚さんは嫌な顔ひとつせず丁寧に解説をしてくれるのです。要するに、耳元でより多く笹塚さんの声が聞ける訳です。我ながらなんと性格の悪いこと、とは思いますが、恋心の前では常識や理性は邪魔なフィルターでしかないのです。申し遅れましたが、わたしは笹塚さんに恋をしております。歳の差なんてもの、知りません。それは北の方の国のお酒の銘柄か何かのことでしょうか?(銘酒『歳の差』、コシヒカリ使用、みたいな。)
 笹塚さんの手がわたしの持っていたシャーペンをひょいと攫って行って、解説をしながら問題文に線や丸を書き込みます。このプリントを明日には教諭に提出せねばならないことが悔やまれてなりません。こんなことならコピーして一枚控えておくべきだったと今更ながら反省をしていると、笹塚さんの解説が終ってしまいました。わたしは新たにシャーペンを取り出し、分かっていた通り、そして笹塚さんの解説で再確認した通り、そこに現在分詞を書き込みました。笹塚さんは、こっくりと頷きます。

「正解」

 たった一言。その一言しか笹塚さんは呟かなかったけれど、少し上機嫌そうだなと思いました。そして作戦を決行するなら今しかないと、わたしは腹筋に力を込めるのです。尻込みしようとするその言葉を、お腹の中から追い出すイメージです。大丈夫です、退路は確保してあります。言った後に少しだけ間を置いて、空気を読んで、一言付け足すのです。英語が、と。
 わたしは息を吸いました。この時点でわたしからは妙な殺気が放たれているのでしょうか、笹塚さんはわたしを見ています。その綺麗な飴のような色の目に映るわたしを自分で見て、それが微笑んでいることを確認しました。大丈夫、いける筈です。

「笹塚さん」
「ん?」
「すきです」


 笹塚さんの手から、シャーペンが滑り落ちました。からんからん、と机とぶつかって乾いた音がしました。
 けれど、笹塚さんの表情は変わりません。
 妙な沈黙が降りてきます。
 思った以上に笹塚さんが無反応で少し驚いてしまいましたが、これで現段階で笹塚さんはわたしを妹ぐらいにしか思っていないことを知りました。これから頑張ればいいのです。収穫はありました。それに、あの笹塚さんがシャーペンを取り落としたのです。これは十分、わたしが知る限りの、笹塚さん最大の動揺であることに間違いありません。わたしは少し残念に思う気持ちを表情に出すまいとしながら、作戦通りの退路を辿ることにしました。英語が、と言うのです。

「  」

 しかし、英語の、え、の発音をすることすらも叶いませんでした。わたしの唇は、空気を吸うだけの無音を響かせ、それから閉じられてしまいました。わたしが閉じたのではありません。笹塚さんの唇に、声も空気も逃げられないほど、ぴったりと唇を閉鎖されてしまったのです。さっききれいだと思った笹塚さんの白い瞼がすぐそこにあります、ワンテンポ遅れてわたしの頬に熱が灯り始めます。どうしてこうなっているのか、到底理解が及びません。わたしの言葉が、笹塚さんの妙なスイッチを押してしまったのでしょうか。
 数十秒、そうしていると、笹塚さんの唇がそっと離れました。それと比例するように、笹塚さんの瞼が持ち上がります。けれどそれは色素の薄い瞳を半分だけしか覗かせませんでした。なんだか眠たそうにも、何かに酔っているようにも見えました。

「目、閉じて」

 その言葉は、わたしが聞いた笹塚さんの声の中で、最も優しく聞こえました。わたしは最早従うしかなく、そっと瞼を下ろしました。暗闇に閉ざされた視界の中で、唇に触れる柔らかな暖かさだけが明確に感じられます。先程まであんなに触れたいと願っていた笹塚さんの指が、そっとわたしの頬に触れ、首筋に触れ、やがてわたしを抱き寄せました。ああ、もう、どうしたらいいのか、分かりません。
 そして、唇が離れました。今度こそちゃんと距離の離れたそれを感覚で感じ取ると、わたしは瞼を持ち上げました。そこには、今までわたしに勉強を教えてくれていた笹塚さんと寸分違わぬ笹塚さんがいました。わたしを抱き寄せていた腕までもが、そっと離されていきます。それが惜しくて、わたしは思わずその腕を掴んでしまいました。女は度胸。しかし、きっと笹塚さんを驚かせているのだろうなと思ったら、顔を上げられなくなりました。なんたる失態、ここまでやり返されるとは夢にも思わなかったのです。

ちゃん、何か言いかけなかった?」

 びくり。わたしの肩は素直に震えました。なんということでしょう、笹塚さんは口付けるという先手を打つことで、わたしの用意していた退路を絶ってしまったのです。今更、英語が、なんて白々しいことは言えません。わたしは悔しい気持ちをぶつけるように、手の中にある笹塚さんの腕を覆っている白いYシャツの袖をぐしゃりと握りました。ああ、再起不能なほどまで、ぐしゃぐしゃになってしまえばいいのに。

「…大したことじゃ、ないですよ」
「へぇ?」


 笹塚さんのその疑るような疑問符の付いた言葉は、ひどく上機嫌そうでした。



幼い少女からの逆転劇

(かくして少女は痛みと愛を知りながら成長してゆくのです)



(羅音さまリクの"泣きたくなるほど幸せな笹塚さんのお話"の冒頭です、多分。まだ続く、気がする…!)
(敬語の可愛さに目覚めました。タイトルはジョゼンタの頬さま、"純情ごっこ"より。//2009.01.19)