閉じた瞼の向こう側で、生温い指先が私の前髪を撫ぜて額を一往復。
 そうされると決まって前髪が不細工な七・三分けになってしまうから、私は正直その指先が好きじゃなかった。

 「。風邪引くぞ」

 低い声でそう呼びかけられても、私は不機嫌そうに眉を顰めてやるだけで目は開けない。
 分かってる、そう唸るように返せば囁くような笹塚さんの溜息が聞こえる。
 それから少しだけ沈黙して、笹塚さんはまた溜息でも零すかのようにぽつりと零した。

 「…ああ、雨か。随分久々に見た」

 珍しくほんの少しの感嘆を含んだ、笹塚さんの声。
 耳を澄ましてみれば確かに雨の音が聞こえた。気付かなかった。
 ここを開けてくれとばかりに窓を叩く必死な雨の音が、色んな所の窓から大合唱してる。
 しばらく私も笹塚さんもその音に耳を傾けて、心地良い沈黙が再び降りてきた。
 ふわ、と鼻腔をくすぐる苦いマルボロの匂いがなんだか妙に哀しくて、私は泣きそうになる。

 「…だから、、そんな所で寝るな」

 呆れたような声がして、頭に少しの圧力と体温がかかる。
 (この声が聞こえれば、もうエンディングは近い。)

 「じゃあ、俺もう行くから。あんまし他所に迷惑かけんじゃねーぞ」

 私を見下ろしていた笹塚さんの気配がスッと動いて、頭の上の体温も圧力も退いてしまう。
 待って、行かないで、じゃなきゃ私風邪引いちゃうよ、ちゃんと起こして行ってよ。
 言いたい言葉は全部声になれずに、ただ喉の奥で引っかかって私の息を震わせるばかり。
 でもそんな心中を察したかのように、笹塚さんの気配がふと立ち止まる。
 私は息を殺して、彼の言葉を待った。
 一緒に来いって言ってくれることを、密かに期待して。

 「あんたは、ちゃんと結婚して、子供産んで、バアさんになれよ」

 私の期待をあっさりと裏切って、笹塚さんはそう言ってから再び足を進め始めてしまった。
 足音はリビングルームを出て行って、短い廊下を進んで、私の靴をまたいで越えて、



玄関のドアが開いて、閉じたら、それを合図に私は瞼を持ち上げた。


目にちらちらと前髪の毛先が落ちてきて、微かな痛みに目を瞬かせた。
(彼の、私の額を滑る指先には、目を覚ましたときに前髪が目に入らないようにという考慮があったのだと私は知った。)
白い天井、仄かに苦いマルボロの香りが漂う、薄暗く寂しい室内。
家具があっても殺風景だったこの部屋は、ここに住む人が居なくなって荷物が消えてからはもっと殺風景になってしまった。
本当は今私が寝ているここにはふかふかしたソファがあって、そこではこの部屋の主だったひとが足を組んで新聞を捲ってた。
新聞に夢中になると煙草の灰が伸びていることに気付かなくて、その度私は何度も彼の名前を呼んだ。
すると彼は、ちゃんとその声に反応して、私を見て、ああ、もう、

「笹塚さん」

無意識になぞる、その名前。
相変わらず室内には雨の音ばかりが響いていて、静かだ。
もちろん返事は帰ってこない。くるはずが無い。なのに、私は何を期待してるんだろう。
今見せられた夢のせい?そもそも今のは夢?期待、させないでよ。もう彼は帰っては来ないんだから。
ぺたりと一人でへたり込んだフローリングの床は恐ろしく冷たくて、私は本当に風邪を引いてしまいそうだ。
窓際には、線香代わりに供えた、火を点けた煙草。
フィルターまで焦げたそれを見たら、なんだか無性に泣けてきてしまった。

笹塚さん、きっとあなたは、未だにここであなたの帰りを待ち続ける私に呆れてしまったんですね。
だからああやって、バアさんになれとか言ったんですね。
でも、ごめんなさい、笹塚さん、あなたがいない私には呼吸すら上手くできないんです。
そう言えばまた呆れたように、馬鹿なこと言うなって言いに来てくれますか。

私はまた、目を閉じた。瞼の裏、暗闇の中で必死に手探りで笹塚さんを探した。

再び目を開ければ既に雨の音も無く、窓の外も室内も暗闇。
いつの間にか煙草の香りさえも消えていて、これが彼の残した答えなのだと私は無理矢理納得した。
立ち上がり荷物を持って、さっきの笹塚さんの足跡を追うように、リビングから廊下、玄関へ。
鮮やかなオレンジ色をしたパンプスを履いてドアを開くと、マンションの廊下の蛍光灯はひどく眩しかった。

「さようなら、笹塚さん。ずっと先に、雨の降らない場所で、また」

言い残して、玄関の扉を閉じた。
閉じる瞬間に笹塚さんの匂いがして、やっぱり私の目には涙が滲んだ。




静かなまぼろし

(2008.12.7//追悼)