いつからのことだろう。わたしは、ネウロが苦手で苦手でしょうがなくなった。
暴力的だし我侭だし俺様だし人の事を虫けら程度にしか思ってないようなヤツだし魔人だし可愛い可愛い弥子のことを酷使してるみたいだし、わたしがネウロのこと嫌いになるのに理由は欠かない。だから、なんだか自分でもああ遂にネウロのこと本格的に苦手になっちゃったんだなー程度の認識だった。最近までは。そう、ホントに、最近までは。

自分の怯えようの異常さに気付いたのは一昨日。久々に探偵事務所に訪れたときのことだった。
扉を開けばそこにヤツが居る、そう思っただけで心拍数が異常で泣きそうになって帰りたくなった。本当に帰ろうと思って踵を返した。そしたら薄い扉越しに聞き慣れた低い声。「久しく訪れたと思えば我輩に何の挨拶も無しか、本気でびっくりして悲鳴を上げそうに、っていうか多分わたし悲鳴上げてた。それも、可愛げのない変なのを。うん、だから、逃げた。そりゃ逃げるよね!扉越しに気配察知されちゃ逃げるって!だって、そうなったらDVは確実だもの。

それからのわたしは本当に異常だ。何処に出現するにも気配の無い魔人の影に怯えながらの毎日。逆三角形のもの見ただけで肩震わせた時には、流石に弥子にも心配された。「あのドS魔人に何かされた?」心配そうな顔でわたしを覗き込む弥子が、そう尋ねて首を傾げる。何か、された?むしろ、わたしの方が聞きたい。そういえばわたしはどうしてこんなにネウロが苦手になったんだっけ。やっぱり、DV魔人だから?わたしは適当に答える。「ネウロが、こわいから」間違えてないし嘘でもない。わたしは、ネウロが怖い。

それも昨日の話。わたしの警戒も虚しく、ネウロはわたしの前に姿を現すことは無かった。
安心安心。歩み寄らなければヤツに会うこともないなんて、何て簡単な攻略法なんだろう。…そりゃ、不意に背後とられるのは嫌だけど、怖いけど、遭遇したくない、けど。でも、ここまで無干渉なのも逆に…ね?寂しい、とまでは言わないけど!会いたくないし関わりたくないけど、あの日みたいに音声のみ、とかぐらいなら大丈夫かも知れない。
どうしよう、行ってみようか。桂木弥子魔界探偵事務所へ。無意味に、クッションをぎゅむりと抱き締める。

「……でも、こわい」
「寂しいの間違いだろう」
「んー、それもちょっと、っうええええ!?」


え、ちょい、こいつ、油断した傍からこれか!しかも独り言に返事返ってくるとかそんなベタな!うわ、もう、魔人のばか!ぶらりと天井に足をつけたコウモリスタイルの魔人様を見上げて、声にならない悲鳴を上げる。見開いた目、ぱくぱくするばかりの唇、着崩した制服。もう少し、わたしの気が引き締まってるときに出没して欲しかった!ネウロの目が愉快そうに鋭く細められて、大きな口がニヤリと弧を描く。その深緑色の瞳と鋭利な歯の間から覗く赤い舌を見ただけで、ただでさえ大変な速度で脈打っているわたしの心臓が一層強く速く脈打ち始める。やっぱりだめだ、こわい。咄嗟に視線を泳がせて対応する。どうしよう、逃げたいのにうまく動けない。

「…か、家宅侵入ですよ警察呼びますよ」
「何を今更。そろそろ寂しがっているかと思ってな、我輩直々に構いに来てやったのだ」
「い、いいいらない世話です遠慮しますお気持ちだけ頂きます!」
「ほう?ワムシ程度の貴様が我輩の思い遣りを踏み躙る気か」
「滅相もない!ただ、も、ほんと、…どうしたらいいのこれ…!」


すた、とフローリングの床に下りてきたネウロを見たらなんだかもう本当にどうしようも無くなって、しかもどんな言葉を並べ立てても言葉ですらわたしの上を行くものだから、結局わたしは頭を抱える羽目になる。言葉通り両手で額から目辺りまで覆って、俯く。やだ、直視できない。ずっとこうしていたら、ネウロはやがて立ち去ってくれるかな。
そんな期待も虚しくネウロの気配がすっとわたしの目の前に移動する。そっと伸ばされたのは、黒い手袋に包まれた、いくらか冷たい印象のある長い指先だろうか。とん、とわたしの手の甲を突く。大袈裟なほどに震えた自分の肩が余りにも情けなくて泣きたくなる。あ、鼻がつんとしてきた。やばい、泣く、このままじゃ、泣く!尚更退かせなくなったわたしの両手に、再び何かが降りてくる。頬に冷たい鉄の感触。何?ネウロの、髪留め?
次いで手の甲に降りてきたのは、恐ろしいほど温かく柔らかい感触だった。

「この手を外せ、

急かすように声が降ってくる。

「……やだ」
「何故だ」
「…これを退けたら、ネウロがいる」
「貴様の脳はウジムシにも劣るな。馬鹿馬鹿しい。貴様の視覚など関係なく、我輩は此処に居る」


……そりゃ、ごもっともだ。だけどこの手を退けるわけにもいかない。この手を退けてしまったらわたしの表情はまったくの無防備状態になってしまう。やだ、こんな泣きそうな情けない顔見られたくない。ひどく顔が熱い。すると、そっと体温の無い細い指先が今度はわたしの輪郭をなぞった。ねぇ、何がしたいのこの魔人は。

、貴様は我輩が嫌いか」
「………苦手」
「貴様は我輩を見るのが嫌か」
「………こわい」
「貴様は我輩の声が嫌いか」
「………こわ、い」
「貴様は、我輩に触れられるのが嫌か」
「………、あ、」


答える前に指が離れていく。ああ、惜しむように漏れた自分の高い声が恨めしい。

、言ってみろ。その一言で、貴様はその苦しみから解放されるのだ」

耳元で魔人が、吐息混じりの低い声で囁く。背筋をぞくりと冷たい何かが駆け上がるような、奇妙な感覚を覚えた。心臓が動きすぎて痛い。目を覆った掌から、受け切れなくなった雫が頬を流れる。何を言えっていうの。もうわたしの言葉は殆どあんたに捻り潰されてしまったばかりじゃないか。もう、わたしの持つ言葉には、何も。

「あいしていると、言ってみろ」

ネウロの低い声に核心を突かれたかのように、わたしの心臓が跳ねて肩が震えた。
ありえない、ありえないありえないありえない!わたしが、ネウロをあいしてる?ありえない、ありえちゃいけないよ、だって相手は人の痛みも分からないようなドSの魔人だよ?そもそも種族が違う。きっとからかわれているに違いない。目を開けたら、きっと、いつものあの意地悪な笑みで、わたしを見下ろしているんだ。

「認めろ、

やめて、やめてネウロ。それ以上囁かないで。

「貴様は、我輩が怖いのでは無い」

耳元にあった気配が、わたしの目の前へと移動する。

「我輩を愛しているという自身の感情に気が付くのが、恐ろしいのだ。さあ言え、

乾きつつあったわたしの唇を、ざらりとした湿った感触が撫ぜた。この唇を開けと催促するように、それの先がわたしの唇をこじ開ける。真っ暗なままのわたしの世界に、ネウロの声が反芻する。わたしは、なにを、恐れていたの?ネウロの気配がまた耳元に移動して、その唇を歪めたのがわかった。わたしは、静かに息を吸う。酸素と一緒に何かが口から入って、肺どころか体中を満たすのが分かった。この気持ちがなんなのか、わたしはまだ知らないままで居る。

「あいしてる」

その声はネウロの声と綺麗に溶け合って、余韻も残さないで消えた。
上出来だと、ネウロは笑った。




その感情に名前をつけて

(きっとそれは掬い上げた色水にも似ている)






2008.07.22 // 不 完 全 燃 焼 \(^O^)/