Merry White #006


 腹に食らった蹴りの衝撃が、瞼の裏に真っ白な火花を散らした。
 痛みと吐き気が綯い交ぜになった何とも言えぬ感覚はの膝から力を奪い、瞬く間に近付いた甲板の木目を辛くも腕で突っぱねることでどうにかダウンだけは免れる。しかし先程から連続で食らい続けている打撃は確実にの体力を削り続けていた。このまま倒れてしまいたい気持ちをぐっと飲み込み、“敵”の姿を見上げる。

「…ッ、は…!!」

 ぼろぼろになっているを見下ろし、エースは口角と眉尻を持ち上げる。それは紛れも無く、余裕の笑みであった。

「張り合いねェな…もう終わりか?」

 エースの言う通り、は先程からまるで子供のように扱われていた。攻撃を仕掛ければかわされ、攻撃をかわそうとすれば巧みなフェイントに引っ掛かり、ほぼ一方的に攻撃を食らい続けている。今まで単身で海を渡りながら海賊の世界を生き抜いてきたにとって、この力の差は大きすぎる誤算だった。それなりに戦えると自負していた。弱くは無い、むしろ強い方だと思っていた。それなのに、こんなにも敵わないなんて。これが世界最強の海賊団、なのか。
 悔しさを通り越した感情がの心臓に熱を送り込む。手足に熱が戻り、足元が覚束ないながらもは再び立ち上がった。エースを睨む瞳の端は先程喰らった肘鉄のせいで早くも赤く腫れ上がり始めている。

 初めに見た時は一発殴ればすぐにポキッと折れちまいそうなガキだなァと思っていたが、彼はこれだけ打ちのめされてもまだ諦めていないらしい。エースは今、この少年を少しだけ見直して ― その一瞬の隙に、の接近を許してしまう。
 その速度よりも何よりも、エースはその後のの行動に驚かされた。

 やっと掴んだ一瞬のチャンスを使ってエースのボディに快心の一撃食らわせる…なんてことはせず、掌でエースの腹に触れるのみだったのだ。ひやりとしたの体温が伝わり、それが“炎”である筈のエースの体温を侵すように奪っていく。触れられた所から自分が自分のもので無くなるような不気味な感覚に目を見開き、銀髪を見下ろす。
 銀色の前髪から覗いた藍色の眼は、エースを見上げて確かに笑った。

「“弾けろ”!!」

 の声が響いた瞬間、エースの腹は内側から瞬く間に膨れ、破裂した。
 よく鍛え上げられた腹筋が消え去り、彼の体には大きな穴が空く。

「今のは…!!」
「あのガキ!能力者か!?」
「………」

 観戦に飽き始めていた隊長たちがざわめき、その光景に誰もが瞠目した。あの少年はエースの体に触れ、言葉を発しただけだけでそれを破裂させてしまった。そんな手品、或いは魔法のような芸当が出来る人種はこの世界では一種類に限られる。悪魔の実の能力者だ。それを食した人間は読んで字の如く“人間離れ”した能力を手に入れることが出来る。
 今の今まで無愛想で生意気なだけのガキだと思われていたが、今この瞬間、更に得体の知れないものになった。

「…!?」

 しかしは勝利を確信していた表情をすぐに引き締め、彼の体から離れた。
 本来ならもっと肉片やら血液やらが飛散して花火のようになるのだが、彼の体から散ったのは本当に花火のような火花だった。逆に血液は一滴も流れてこない。これは妙だ。眉を顰め、いつまで経っても倒れない相手の体をじっと見つめる。
 やがて、彼の腹に開いた穴から真っ赤な炎が噴き出した。その炎はぎょっとして言葉を失うの目の前で、見る見るうちにエースの傷口を埋めていく。
 そしてそれが塞がりきるのを待たず、俯いたまま沈黙していたエースが何事も無かったかのように顔を上げて笑った。

「少し、ビックリしちまった」
「お前…ロギアか…!?」

 その身を“自然”そのものに変えられるのは悪魔の実の中でも稀少な、ロギア系能力者に限られる。
 エースは片足を引いて腰を落とし、本格的に戦う構えを見せた。それからの問いに頷いて、それを肯定する。

「メラメラの実だ」

 見開いた藍色の瞳に、炎を纏った拳の鮮やかなオレンジ色が映りこんだ。


 * * * * * * * * * *


「は、ッ!…はぁ、はぁ…ッ」

 半壊した壁に沿うように、の体は本人の意向に逆らってズルズルと地面に吸い寄せられた。
 息を吸えばダメージを負った内臓が痛み、息を吐いてもまた同様に痛みが走る。相手の纏う炎で火傷になった皮膚は夜風に軽く撫でられるたびに悲鳴を上げた。立ち上がらなければと思えば思うほど体に力が入らない。もはや意地ではどうにもならないほど疲弊しきったの体が、動くことを拒否したようだった。
 は顔を苦渋に歪ませ、壁に後頭部を預ける。それは、長らく続いた喧嘩の終わりを示していた。

 拳を下げたエースを見て喧嘩の終わりを知り、ギャラリーの面々が緊張感を吐き出すように小さく息を吐く。その人数は最初の何倍にもなっており、途中から能力合戦となった2人の喧嘩を見守っていたのは、いつの間にやら隊長たちだけではなくなっていた。
 喧嘩を始めるときにはまだ顔を半分出していた陽も既に沈み、濃紺の空には星が瞬き月が輝く。知らぬ間に灯されていた灯りがぼんやり、ゆらゆらと、甲板を暖かな光で包んでいる。
 沈黙を破るように、隊長のひとりであるイゾウが腕を組みながら呟く。

「勝負あったな」
「…意外と持ち堪えた方じゃねェか?あのガキ」
「戦いにおける基本は、出来ているように見えたが」
「それでも海兵程度じゃねェかよい。…口ほどにもねェ」
「エースの野郎、ホンットに容赦ねェな…」

 それをきっかけに隊長の面々が喋りだし、やがてその場にいた全員がざわざわとし始める。賑わいを取り戻した彼らをぐるりと眺めてから、エースは帽子を被り直しつつの元へと歩み寄った。は呆然と夜空を見上げていたが、視界にあの笑顔が映りこめばそちらへと視線を向けた。今の瞬間まで自分をボコボコにしていたとは信じられぬような爽やかな笑みだなと、無表情のままで思う。

「最初は少しナメて掛かったが…意外とやるなァ、お前」
「…ここの船員は…みんな…お前みたい、なのか…?」
「ああ。みんな強ェぞ」
「…そうか…」

 おどけた笑顔で応えながら、エースがに手を伸べる。はそれを当然のように無視して、床に手を突くとゆっくり腰を持ち上げた。壁に体重を預け、少しずつ、少しずつ立ち上がっていく。シャワーで流して綺麗になった筈の銀髪は早くも血で汚れ、部分的に赤銅色になっていた。マルコに借りた服も焦げ跡やら何やらで、お世辞にも綺麗とは言い難い状態だ。エースは一瞬肩を貸そうかと思うが、掌を無視された手前、邪険に振り払われるだけだろうと差し出しかけた腕を引っ込めた。
 そんなエースの小さな心遣いなど全く意に介さず、は唯、喧嘩に負けたという絶望感に打ちのめされていた。
 あんな啖呵を切っておきながら、負けた。それが海賊の世界でどんな意味を為すのか分からないほど未熟ではない。しかも相手は天下の白ひげ海賊団だ。ここで奴隷にされるか、それとも臓器を売られるか。…それならいっそ、海に飛び込んで死んだ方がマシだ。

「銀髪。名は何だ」

 唐突に投げかけられたエドワードの声に、が顔を上げる。
 は、今自分の運命はこの男の言葉に掛かっている、という事実から来る恐れをどうにか飲み込もうとしながら、奮い立たせた僅かな勇気でエドワードを見据え、はっきりとした声で答えた。

「………
「…それなら、こうしようじゃねェか。

 どのような言葉も受け入れざるを得ない。は視線を伏せ、エドワードの言葉の続きを待つ。

「そいつに一度でも勝てたら、船をやろう」
「…え…っ!?」

 かけられた言葉はあまりにも予想から掛け離れすぎていた。
 動揺を顕わにしながら今一度反射的に視線を上げると、ひどく愉しそうに笑うエドワードが映る。は理解し難い状況に思考回路が追いつかず、呆然と唇を半開きにしたまま彼の笑顔を見つめていた。だって、自分にチャンスをくれるメリットがエドワードには無いじゃないか。一体この世界最強の海賊は、何を考えているんだ。

「…オヤジ、そりゃ無謀だと思うよい」

 しかし、マルコのその一言でぐらぐら動揺していた思考回路が唐突に落ち着き、冷静な思考が戻ってきた。
 確かに力の差は大きかったが、いくらなんでも“無謀”は無いだろう。どうにかして勝てばいい。そうやって今まで生き抜いてきたんだ。勝てれば船も貰える上に雪辱も果たせる。一石二鳥じゃないか、何を迷うことがあるのだ。
 エドワードは自分を見上げるの瞳に再び強い意志が戻ってきたことに気がつき、目を細めた。

「………勝てばいいんだろ、一度でも」
「あァ。そうだ」
「…分かった」

 エドワードにそれだけ確認すると、は壁伝いに体を引き摺りながらその場を歩き去った。
 マルコとサッチはその後を追おうとするが、エースに呼び止められては2人共足を留めて彼を振り返る。

「…あのさ、おれ、状況が全く読めてねェんだけど…」

 困った顔で笑いながら、エースが言う。そういえば唐突に喧嘩をさせられた上にこれからもに標的として狙われ続けなければならなくなったエースは、がこの船に乗っているわけも喧嘩をさせられた理由も知らない。あまりにも不憫である。
 マルコとサッチは顔を見合わせると、の追跡を止めてエースの下へと歩み寄った。そしてそこに集まった隊長たちにも同時に、がこの船に乗るまでの経緯と彼自身のことについて、ありのままを説明し始めるのだった。
 ―― ただし、一点だけを除いて。