Merry White #005


 その男はの予想よりも遥かに“大きかった”。
 彼の前に立ち、ぎょろりとその目で見下ろされるだけで足が竦んで動けなくなる。決して睨まれている訳でも威圧されている訳でもないのに、心臓が今にも殺されそうな緊張感に早鐘を鳴らす。人に見られただけでこんなにも逃げ出したくなるなんて、長らく海を渡ってきたでも初めてのことだった。
 これが“生ける伝説”、海賊白ひげ、エドワード・ニューゲート。
 彼の前に立ってからものの数秒間で、は彼のその呼び名が決して大袈裟なものではないことを知った。

「…小船でこの海を渡ってきたってンで、どんなタフな野郎かと思えば」

 エドワードはの細い四肢と白い肌、そして幼い顔を順に眺めて唇の角をつ、と上げる。

「乳臭ェ上にひょろいだけのガキじゃねェか」

 いつもならそんなこと言われた時点で喧嘩を売られたと判断して無言で攻撃を仕掛けたりするところだが、この男に“ガキ”だと言われては頷かざるを得ない。この男の人生の半分も生きておらず、この男の半分も世界を知らないは彼の言う通り確かに乳臭いガキなのだ。それに今はマルコに借りたシャツとズボンをぶかぶかに着ているせいで、必要以上に体系の華奢さが目立っている。
 エドワードが微かに笑うことで威圧感が少し薄まったような気がして、は一文字に結び続けていた唇を漸く開いた。このまま怯えて黙り続けていては、何の為にマルコにここまで案内して貰ったのか分からない。

「あんたが…白ひげか…」
「あァ、そうだ」

 エドワードは彼の体格に合った大きな椅子の背もたれに背を預け、頷いた。彼越しに見上げた空は橙色に色づいており、は日暮れが近いことを知る。それなら尚更急がなければ。改めてエドワードを見上げ、覚悟を決めるように息を吸い、はっきりと言葉を声に乗せた。

「単刀直入に言おう。船が欲しい」
「…あァ?」

 エドワードは訳が分からないとでも言いたげに眉を顰め、低く唸るような声を出した。しかし微かに増した威圧感に怯えている暇などには無い。眉尻を吊り上げて真っ直ぐにエドワードの目を見つめながら、言葉を重ねた。

「小船さえ貰えりゃ、もう何も世話にはならない。すぐ出て行く」

 相手にとっても悪くない条件だろう。得体の知れない漂流者を住み着かせて食料や飲料を余計に消費するよりは、適当な小船をぽんと渡してさっさと厄介払いしてしまえた方がいい筈だ。そしてそれを漂流者が自ら望んでいる上、特に食料などを要求している訳でもない。こんなに都合の良い事があるだろうか。は、エドワードが頷くことを確信して疑わなかった。
 しかしの予想に反して、エドワードは眉を顰めたまま頷こうとしなかった。

「…野垂れ死ぬために船を出そうってのか」
「そうは言ってない」
「そうなる」

 こちら側の言い分も聞かず断言されたことに腹が立ち、は眉間に皺を寄せて語気を強めた。

「そうならないかも知れないだろ」

 言葉こそ強かったが、その内容では死ぬかもしれない可能性を否定しきらなかった。つまり、絶対に死なないという確信は自身にも無いようだった。エドワードはそれに気が付くと更に激しく眉を顰め、不快そうな顔をして見せる。

「…ハナタレが。何を生き急いでやがる…」

 溜息混じりにそう呟いては、その表情を呆れに変えてを見下ろした。

「いいか、よく聞け。…おれにはお前を救う義理も無けりゃ、匿ってやる義理もねェ。
 だが。テメェに自殺用の船を用意してやる義理もねェんだ」

 はその表現に目を見開き、思わず声を荒げる。

「自殺用って…!!だから死なねぇって言ってんだろ!!」
「死に掛けを拾われた命だろうが。何をほざいても同じだ」

 びしっと言い切られ、は反論の為に開いた口を渋々閉じて俯いた。確かに、マルコに拾われていなければ今頃まだあの小船の上で汚らしい格好のまま生と死の間を行き来していたことだろう。今彼に船を貰って再度海を渡り始めたしたとしても、どうせ同じ事を繰り返すに違いない。結果的に小船を無駄にするぐらいなら最初から渡したくないのだ、きっと。は心の中でそう勝手に結論付けて、表情に怒りを滲ませる。

「ウチの小船は…お前の棺桶じゃねェんだ」

 そう言われて拳をぎゅっと握り固めるの後姿を眺め、マルコとサッチは密かに溜息を吐く。
 親の心子知らずというか、なんというか。小船を渡すことでを結果的に見殺すようなことはしたくないのだと、彼女は一体いつ気がつくのだろうか。

「テメェは、弱ェだろう」

 エドワードの乱暴な物言いの裏側にある気遣いを汲み取れず、は静かに笑った。
 つまり、弱くなければ船は渡して貰えるのだ。それなら手っ取り早い方法がひとつある。それはが海を渡るようになってから幾度も繰り返してきたものであり、最も海賊らしく、そしてシンプルな手段だった。
 顔を上げ、目の前の“生ける伝説”を睨みつける。

「…力ずくで奪え、ってか…!!」

 相手が伝説だろうが最強だろうがなんだろうが、それしか手段が無いならやるしかない。ほとんど意地で腹を括れば怯えは何処かへと消え去り、代わりにその瞳には純粋な殺意が満ちた。それは彼女の後姿しか見えていない見物人たちにも伝わり、一瞬にして船上に緊張が走る。だが、それを向けられた張本人はさも愉しげに声を上げて笑うのだった。

「グララララ!なんて目をしやがる、ガキの分際で」

 さながら飢えた獣のようだ。しかし、この殺意は“ただ人を殺したい”といった類のものではなさそうである。強いて言うなら“邪魔するものは許さない”というような、意志の強い真っ直ぐな殺意。そこにあるのが最強と呼ばれるような大きな壁だろうが何だろうが、このガキは敵わないと知りながらもそれを越えようと挑むのだ。
 真っ直ぐで単純馬鹿なその藍色の瞳孔が、エドワードはひどく気に入ったようだった。そしてそれに応えるべく、椅子から立ち上がり薙刀を手にする。浮かべた笑みもそのままに、一歩、二歩、とに歩み寄る。
 上機嫌に笑っている筈の人間が、こんなにも恐ろしいとは。彼が近付く度に重くなる空気に押し潰されぬよう凛と姿勢を正し、エドワードの瞳を見据える。それから後ろの気配がざわつき始めたのを聞き、いつの間にかギャラリーが増えていたことに気がついた。ここは正に“アウェー”だ。仮に彼を倒せたとしても、命の保障は無い。

「テメェがどうあがこうとも…おれには勝てねェぞ、アホンダラ」
「…それだって、分からねーだろ」

 近くで見上げたその男は、やはり大きかった。けれど、もう退く訳にはいかない。
 を見下ろす白ひげの視線にも好戦的な色が乗り、些か睨むようなそれになる。そこらのゴロつきなら尻尾を巻いて逃げだすようなその視線にも、この華奢で小さな少年は果敢に立ち向かってくる。こういう度胸のある“馬鹿”さ具合が、更に白ひげに気に入られる要因となっていることに本人は気付かない。

 その時、と白ひげの視界の隅で、黒い影がふわりと軽やかにこの船の甲板に降り立った。
 一触即発状態だった2人だけでなく、その場にいた全員がその唐突に現れた影へと視線を注ぐ。そして以外の全員はその見知った顔に、思わず溜息を零すのだった。それはこのタイミングで現れたことへの呆れか、それとも今の緊張感を少しでも和らげてくれたことへの安堵か。どちらにせよ溜息での歓迎を受けたその人物は、特徴的なオレンジ色のテンガロンハットを抑えながら屈めていた身を起こした。

「い、よ…っと!ただい、ま?」

 からっとした太陽のような笑みを浮かべて帰りを知らせるも、視界のど真ん中に見知らぬ人物を見つけては語尾に疑問符がちょんと乗る。不思議に思っていることを隠そうともせずに表情に出し、その細くて白い少年に問いかけた。

「なんだ?見ねェ顔だな、新入りか?」

 は表情を一切変えず、何も答えない。そして答えぬ代わりに、どうしてこの船には馴れ馴れしいヤツが多いんだろう、とぼんやり考えていた。黒い髪、派手な帽子、服をまとわぬ鍛えられた上半身。表情をころころと変える男前な顔にはそばかすが目立つ。見るからに明るく陽気な好青年だろうことが分かり、なるべく関わるまいと彼を観察し続けていた視線をふいと逸らした。
 の返答を待ち続けるその男に、12番隊隊長の少年剣士ハルタが声をかけた。

「…計ったようなタイミングだな。おかえり、エース」
「ああ!ただいま!…って、よく見りゃ皆集まってんじゃねェか。何事だ?」

 エースと呼ばれたその男はハルタに笑顔を向けると、その隣や後ろにずらりと勢ぞろいした各隊隊長に気が付いて目を丸めた。普段ならば皆船の中で散り散りになって好きなことをしている時間だ。それなのに全員、それも船長を交えて集合しているとなればただ事じゃない。今の状況に独り取り残されたエースの慌てた横顔を眺め、エドワードが声を発する。

「エースか…」
「よう、オヤジ!今戻った!…そいつ、何モンだ?」

 エースは小動物のような俊敏さでその声に反応すると、エドワードにも改めて帰りを知らせたついでに少年のことを尋ねた。オヤジという呼び名に内心首を傾げるを見遣りながらエドワードはふとあることを思い立ち、三日月のような形をした大きな白いひげの下で、唇をそれそっくりな形に歪めた。

「…ちょうどいい。エース、こいつと少し喧嘩しねェか」
「………」

 唐突な提案だった。は微かな動揺に目を見開いてエドワードを見上げるが、すぐにそれを掻き消す。それから先程までのような殺意を孕む冷淡な眼差しで、エースのことを捉えた。それを受け、エースが肩を竦める。

「喧嘩?なんだよ、新入りとか…じゃ、無さそうだな」

 あからさますぎるほどの敵意を向けられ、エースは“とりあえずこの少年は味方では無い”とだけ理解した。担いでいた荷物を下ろし、帽子を被り直しながらと対峙する。
 白ひげの部下を倒せないなら白ひげを倒すことも叶わないだろう。それならばこの喧嘩にも意味は見い出せる。まずはこの男を乗り越えてやろうと、の体もまたエースの方へと向いた。

「よく分からねェが、オヤジのご指名なら仕方ねェ。悪く思うなよ、銀髪」
「…こっちの台詞だ」

 エースが笑う。は依然として無表情のまま、そっと足を引いて構えの姿勢を取った。