Merry White #003


 少年は数ヶ月ぶりに鏡というものを見た。
 良く磨かれたガラスの向こう側に汚い乞食がいるのかと思い目を丸めると、その乞食もまた目を丸めた。髪はバサバサで艶など無く、部分的に血で固まっている。服は元々白かったことが嘘の様な汚れ具合だ。
 見ているだけで居た堪れない気持ちになってしまい、少年は自分の惨状から思わず視線を逸らす。するとその先にはマルコが立っていた。
 マルコは改めて少年の容姿をじっと眺め、やがて唇の角をついと持ち上げる。

「…ボロ雑巾が息してやがったんで、珍しくて拾っちまったんだよい」

 いつもなら食って掛かる所だが、さすがに“これ”では何も言えない。
 少年は不愉快そうに顔を顰め、ふい、と浴室の方を向いた。浴室の入り口もまた随分と大きい、この船は一体どれほどのクルーを乗せているのだろうか。そんなことを考えつつ今は誰も入っていないだろう静かな浴室を見つめるだけの少年の背中を眺め、マルコが片眉を上げた。

「ほら、さっさとしろ」

 さっさとしろ、も何も。
 腕組みをしてそこに立ったまま動こうとしないマルコを、少年が無表情で睨みつける。マルコはその表情から彼の言わんとしている事を読み取り、盛大に溜息を吐いてみせた。まったくこの少年は、どこまで警戒心が強いのだか。

「…敵前じゃ脱げねェ、ってか?」
「そうだ」
「ガキがいっちょ前に何を威張ってんだよい」
「威張った覚えは無い。…ガキって呼ぶな、おっさん」

 ガキをガキと呼んで何が悪い。と反論しそうになったが、そこはマルコが大人の対応。言葉は発さず、呆れた表情で生意気な藍色の瞳孔を上から覗き込んだ。少年は目力を強め、降り注ぐ視線を下から押し返さんとする。
 こうしていたら、なんだか反抗期の息子を抱える父親のような気分になってきてしまった。この少年に対して敵意など1ミリも向けていないのに必要以上に警戒され、挙句おっさん呼ばわり。こちらは色々と親切にしてやっている―別に恩を着せようという気はないが―というのに、なぜそれを素直に受け取ろうとしないのか。
 …まぁ、とりあえずこれ以上ここで少年と見詰め合っていても無意味だろう。マルコはわざとらしく溜息を吐くと、少年に背を向けてこの部屋を後にしようと歩き出した。

「さっさと済ませろよい、ボロ雑巾」
「黙らねぇと殺すぞ」
「死なねェから不死鳥なんだよい」

 ガキと呼ぶなというから別の名を考案したが、それも気には召してもらえなかったらしい。
 随分と物騒な物言いを鼻で笑い飛ばし、手にしていたタオルと替えの服を適当な所にぽいと置く。これだけ険悪になりながらもきちんと少年の替えの服まで用意してくれる辺り、マルコの面倒見は母親レベルである。
 しかし、少年がきょとんと目を丸めたのはその優しさが意外だったから、などでは無かった。今しがた聞いた言葉が信じられないとばかりに瞬きを大きく繰り返し、少し悩む素振りを見せ、扉から出て行こうとする背中に声を掛ける。

「………不死鳥?」

 呼び止められる形になったマルコが、振り返って頷く。

「ああ。“不死鳥”マルコ。おれのことだよい」

 白ひげ海賊団1番隊隊長、“不死鳥”マルコ。この海を渡る者ならば誰もが一度は必ず聞く名だ。
 この少年も例に漏れずその名を耳にしたことがあった。そしてそれを耳にしたとき同時に、こいつらにだけは関わるまい、と心に決めていたことを…本人を目の前にしながら、思い出す。
 そういえば夢かと思っていたが、青くて綺麗な炎を纏う鳥が彼の口調で喋っていた気がする。もしもあれが夢じゃなくて、意識を失う寸前に見た現実の景色だったとしたら?…目の前の男、イコール、青くて綺麗な鳥。イコール、不死鳥。イコール、…不死鳥の、マルコ?
 ただでさえ蒼白かった少年の顔から、更にサッと血の気が引く。

「…ッ、おい!ここ、まさか!!」

 久しぶりに声を荒げた所為で声帯がびりびりとしたが、そんなことに構ってなどいられない。「まさか」だなんて遠回しな言い方をしたが、不死鳥マルコが乗っている船なんて“あれ”しか在り得ない。だとしたら自分は、知らず知らずの内に“あれ”に乗っている訳になる。
 マルコは突然声を大きくした少年にやかましいと言いたげに目を細め、しかし分かり易く動揺するその様に、息を漏らすように微かに笑った。

「あーあー、うるせェよい。…つか、今更気が付いたのか」
「おい嘘だろ…!!」
「お前みてェなガキでも、さすがに海賊“白ひげ”の名は知ってんだな」

 頭を抱えた少年にトドメを刺すようにして、マルコが“あれ”の名をさらりと口に出す。なるべく“白ひげ”という単語を考えないようにしていた少年の小さな努力が水泡に帰した瞬間だった。少年の動きが完全に止まり、その更なる動揺っぷりにマルコがニヤニヤし始める。それに怒ることも不機嫌そうに眉を顰めることもできず、少年は呆然と立ち尽くしていた。

 少年は今、白ひげ海賊団の船に乗っているという現実を受け止めざるを得なくなってしまったのだ。

 白ひげといえば最強の代名詞のような海賊で今最も海賊王に近く、鬼や天災よりも恐ろしいとされている。他にも恐ろしい噂話は数あまた。それら全てが事実とは限らないが、火の無いところに煙は立たないだろう。
 少年は首を折り曲げるようにして真下を向いた。掌で額を押さえ、ぐるぐると回り出した思考回路をどうにかして落ち着けようとする。傍から見れば冷静に思案しているポーズだが、実はものすごいパニック状態だ。こうして取り乱すのも久しぶりのことだな、と思考の隅で思いながら、少年は平静を装った抑揚の無い声を紡ぐ。

「……風呂借りたら、すぐ出て行く」
「この船を、か?…どうやって?」
「俺の乗ってきた小船で」
「あんなボロッボロの虚弱な船、お前だけ拾って放流しちまったよい」
「はぁ!?」

 咄嗟に上げた声は裏返り、マルコを見上げた表情は正に豆鉄砲を食らった鳩のようだった。
 漸く見せたこの少年の人間らしい表情に少し安堵しながらも、それを表情には出さずマルコが言う。

「船が欲しけりゃ、この船の船長にでも頼むんだな」

 それを捨て台詞にマルコは脱衣所を出ると、後ろ手に扉を閉めた。
 ひとりぶんの足音が苛立つほどマイペースに遠ざかって行く。これで更に鼻歌なんか聞こえ始めたら、この部屋を飛び出してあの男を背後から殴りにいってしまうかも知れない。…殴る?白ひげ海賊団1番隊隊長、不死鳥マルコを?
 怖気づいた訳では無いが、不可思議な緊張感が胸中をぐちゃぐちゃに綯い交ぜる。少年は自分の髪をぐしゃりと握り、その場に蹲った。掌の中で髪が軋む。
 …とりあえず、風呂に入ってから考えよう。
 少年は先程よりも数倍重くなった己の体を無理矢理立たせ、のろのろと服を脱ぎ始めた。