Merry White #002


 地獄ってのは随分と穏やかな場所なんだな、と、目を覚ました少年は板張りの天井に吊るされた裸電球を見上げて思った。それから指先に触れるシーツの感触で、どうやらここは地獄で無いらしいと悟る。練習をするように浅い呼吸を繰り返し、少年が続けて零したのは、落胆の溜息だった。
 一体どれだけの時間をあの硬くて狭い小船に寝転んで過ごしていたのかは自分でも分からないが、とにかく、少年は今久しぶりにベッドというものの感触を思い出した。柔らかい。暖かい。…なんだ、俺はまだ、生きてるのか。
 柔らかな枕の上で頭を横へ向けると、首の骨が軋む音が耳の底でごりごりと鳴る。この部屋は狭い。物置部屋のようだった。微かに揺れている辺りどこかの船の船室で、それもかなり大きな船なのだろうと少年は寝転がりながら推測する。
 自分の寝ているベッドの横には点滴がぽつんと立っており、それから透明の液体がチューブを通って自分の手首へと流れ込んでいた。少年は躊躇わず、そのチューブを自分の手首から引き抜く。針が抜け、血が散り、シーツに赤い斑点模様が生まれた。
 少年はチューブを握り、透明な液体を掌に押し出した。そっと顔を寄せ、それの匂いを嗅ぐ。 

「別に毒なんかじゃねェよい」

 唐突に人の声が聞こえ、少年は弾けたようにそちらを見た。掌にあった栄養剤が零れ、手の甲から腕へと伝う。
 数時間前の衰弱しきった顔はどこへやら。敵意と警戒心を湛えて爛々とした藍色の瞳に見据えられ、マルコは思わず肩を竦めた。片手で皿を持ち、もう片方の手には酒瓶。器用に足で扉を閉め、少年のもとへと歩み寄る。
 少年はマルコからほんの少しも目を離さず、やがてベッドサイドまで来た彼を見上げ、低い声で尋ねた。

「…お前が、俺を助けたのか」

 マルコの声は、意識を手離す寸前に聞いた覚えのある声だった。特徴的な語尾だったのでよく覚えている。
 少年の問いにマルコは少しだけ黙ると、否定も肯定もせずに適当な木箱を足で引き寄せた。その上に酒瓶を置き、その隣に腰掛ける。こうすることでマルコと少年の視線は同じ高さになった。

「あんな小っせェ船でよくもまァここまで来れたモンだよい」

 呆れたような声音でマルコは遠回しに肯定する。それを受けても少年は顔色を全く変えず、今こいつおれの話聞いてたか?とマルコが疑る程に無反応だった。そのまま少年は暫しマルコの瞳を見つめていたが、やがて目を伏せると体を起こした。背骨が軋んだが、特に反応するほどの痛みでは無かった。

「そうか、分かった」

 短くそう応え、少年は体の上の毛布をばさりと退けた。ベッドから足を下ろそうと体を僅かにひねれば、マルコが立ち上がってそれを制する。掌が余るほどの少年の肩の細さに、マルコは眉を顰めた。栄養失調が酷過ぎる状態だと看護婦には聞いていたが、それにしてもこの細さは、ひどい。

「待て待て。病人がどこに行くってんだよい」

 肩を掴むマルコの大きな手にも睨むような視線にも動じず、少年は毅然としてマルコを睨む。

「関係ない。俺の船はどこだ」
「…そのクチの利き方はねェだろうがよい」

 マルコの声にドスが利き、少年を見下ろす視線にも刺々しさが増す。少年の肌を威圧するそれが僅かではあるが“覇気”の部類であることを少年はまだ知らない。白ひげの一味ですら顔を青くするマルコの“怒り”だが、少年はしれっとした態度で言葉を続ける。

「助けろとは言ってない」
「…救いは乞うただろ」

 些か意外だったらしいその言葉に、漸く少年が僅かに動揺を顕わにした。長い睫に彩られた目の中で揺れ動いた藍色の瞳孔を見つめ、やっぱこいつ女顔だな、なんてくだらないことを考えながらマルコは言葉を続ける。

「かみさま、ってな」

 掠れた小さな、弱々しい声で。この少年は確かに、自分をかみさまと呼んだ。その時はちょうど青い炎を纏う伝説の“不死鳥”の姿をしていたから、死に際に追い遣られていた彼には自分が神様に見えたのだろう。しかし、どうやら彼自身にはその部分の記憶がないらしい。更に動揺し、視線をうろりと薄暗い室内へ彷徨わせ、やがて顔を伏してしまった。少年の銀色の髪は痛み、ごわごわとしている。これだけを見たら本当に老人のようだ。

「………礼は言う」
「じゃあ言え」
「…は?」

 仕方なく渋々、といった感じの少年の声にマルコが即答すると、少年は目を丸めて顔を上げた。マルコは無表情のまま、畳み掛けるように声音を強めて言葉を紡いだ。

「礼は言うんだろ?言えよい、ありがとうございました、って」

 いやいやそうじゃないだろ礼を言うっていうのが既に一種の礼であって別にこれから言うよっていうそういうあれじゃなくて、と少年は思わず一瞬真面目にマルコを諭そうとしてしまったけれど、恐らくマルコのその回答は自分の硬い言い回しを揶揄したものだと思い直して気が付けば、すっと動揺を表情から掻き消してマルコを見上げた。

「お前、馬鹿だろ」

 単刀直入に、ずばっ、と。なんの感情も込めずに少年はそう言った。
 マルコは片眉を吊り上げると、片手に持ったままだった深めの皿を少年の頭に振り下ろした。皿の底が、ゴン!と鈍い音を立てて少年の頭に着地する。中に入っているシチューが、ちゃぷんと音を立てた。

「っ!?」

 見えていたのに避けられなかった自分に驚き、少年が目を丸める。それだけ自分の体が衰弱しているということに、今の今まで気付けていなかったらしい。慌てて自分の頭上に手を伸ばすも皿は素早く頭からどいてしまう。じんじんと痺れるように痛み続ける頭をその手で押さえ、更にきつく、自分を見下ろすその男を睨んだ。

「なにすん…っ、」

 だが、目の前にすっと差し出されたその皿に言葉は遮られた。ごろごろと大きめにカットされた肉や野菜が泳ぐシチューからは湯気が立ち昇り、少年の瞳を誘惑した。鼻腔をくすぐる良い匂いに、麻痺していた空腹感がじわりと蘇り始める。

「ほら、食え。毒は入ってねェ」

 てっきりこの男が食うものだと思っていた少年は、差し出された皿を呆然と見つめ、やがてそろりとマルコを見上げた。お前らに助けられた上に餌付けられる義理も無いんだけど、なぜ?と言いたげな、不思議な顔だった。マルコは深々と溜息をつき、皿をひょいと持ち上げるとシチューを一口だけ飲んだ。それから木箱の上に置いていた酒瓶を手に取り、こちらも一口煽る。少年はただ無言で、それを目で追っていた。

「ん、うめェ」

 そうぽつりと零しながら、マルコが再び少年に皿を差し出した。今度はおずおずとだがきちんとそれを受け取った少年を見下ろし、満足げによしと頷く。とりあえず、毒が入っていないことは信じて貰えたようだった。
 けれど少年はそれを口に運ばず、黙ってマルコを見上げた。マルコはその視線を受けて暫し不思議そうに首を捻っていたがやがて、ああ、と何かに気が付いたように頷いては踵を返した。

「…わァったよい。それ食ったら寝ろ。で、目が覚めたら風呂に入れ」

 酒瓶を木箱の上に置き直し、マルコはゆっくりと歩いてその部屋を後にする。扉を開き、廊下に出てそれを閉めるまでの間、少年の視線は背にくっついたままだった。普段は物置小屋になっているその部屋の扉を背に、マルコは思わず少しだけ笑ってしまう。

「…本当に、警戒心だけはご立派なガキだよい」

 生き物が一番油断するのは食事をしているときだという。だから少年はマルコの見ている前で、毒が入っていないとは分かりながらも食べ物を口にしなかったのだ。
 見たところ、少年は随分と幼く見える。それなのに自分の睨みにも威圧にも動じず、加えて点滴の中身を疑ったり少しも警戒心を解かなかったりと随分な“警戒”っぷりだ。
 少し、厄介なものを拾ったかもしれない。
 マルコが扉を隔てた向こう側でそう考えている頃、少年もまたシチューに口を付けながら、少々厄介なヤツに拾われたかも知れない、と考えていた。
 シチューは空っぽだった少年の体の中を温め、満たしていった。すぐさま空になったその皿をベッドサイドの木箱に置き、酒瓶を手に取るとそれの中身もすぐに口の中へと消え去る。空になった酒瓶は冷たい。それを感知できるぐらいには少年の体温は人並みに戻り、また意識も少しずつはっきりし始める。死人のように冷たく、動きの鈍っていた少年の体が体温を取り戻していく。心臓が鼓動するのを感じ、呼吸することで埃の匂いを感じ、長らく清めることの出来なかった自分の身に不潔感を覚えて些か不愉快になる。けれど体が温まったせいか頭が気だるくなり、吸い込まれるようにその身はベッドへと沈んだ。

 俺は、生きている。

 少年はそう実感しながら、心地良い眠りへと引きずり込まれていった。