躊躇わずに人に触れようとする彼の手が、たまにひどく醜く見えるときがある。彼はそうして他人との距離を埋めて、知らず知らずの内に勝手に随分と深いところまで入ってくる。その手に下心が見えているなら弾くのも容易いのだけれど、そうできないのは彼が私に触れながら、からりとした太陽にも似た笑顔を湛えるからだ。嬉しそうに楽しそうに、彼は私の髪を撫でたり手を握ったり頬を突いたりする。彼の手は、指は、下心なんてものを微塵も含んでいない様に感じさせる。

 どうせまた下らない用だろうと油断した私が、今、彼に組み敷かれているのもその所為だ。

「隙、見っけ」

 にししっ!と歯を見せて笑う彼があまりにもいつも通りすぎて思わずこちらも、見つけられちゃったかー油断したよ!なんて笑い返してしまいそうになる。違う。気を確かに持ちなさい私。今ルフィ越しに見える風景は船室の天井で、背中に感じるのはひやりとした木の床の感触。私の手首を握り締めるルフィの手には力が篭っていて、ルフィが私の上に跨っている所為で身動き一つとれやしない。これはまさしく、危機的状況だ。

「…ルフィ、何しようとしてるの?」
「おれ、が美味そうに見えてしょうがねェんだけど食うわけにはいかねェよなって話をサンジにしたんだ」

 私の質問をあっさりと無視して、ルフィがにっこり笑う。

「それで、教えてもらったんだ。を殺さねェ食い方」

 普段なら残酷な冗談にしか聞こえないだろうそれは、私の背を戦慄させるには十分過ぎるほどの無邪気さを孕んでいた。見開いた視界の中で、ルフィは未だに上機嫌そうに笑っている。けれどすぐにそれをはたりと止めて、困ったように首を捻った。いつもなら面白いルフィの百面相に、今回ばかりはひやりと心臓が萎縮する。

「んん?…“隙を見つけて動きを奪え”…の次、どーすんだったっけ?」
「………どうもしなくていいよ」

 ルフィが、ゾロに言わせたところの“アホな声”で言う。ていうかサンジはルフィになんてことを吹き込んでるんだ。本気にするに決まってるじゃないか。後々サンジには然るべき対処を取るとして、今解決すべき“問題”を視線で見上げた。“問題”は、眉根を寄せ、唇をヘの字に歪め、首を傾げている。そこにいつものルフィの片鱗を見つけた私は、いつも通りに呆れたような笑みを浮かべて見せた。そうするとルフィは決まって、そうか?それならいいか!とキラキラ笑ってくれる。僅かだけどそれを期待した。ルフィは視線で、ぎこちなく笑う私の唇をなぞる。それから私の視界に影が、ふっと落ちてきた。さらりと瞼を擽る感触。まちがえた、これ、影じゃない。ルフィ自身だ。

「思い出した。“くちびるから味わえ”だった」

 あっけらかんと言い放ったルフィの声が私の唇をダイレクトに振るわせた。生温い空気が混じり、それごと呑み込むようにして距離がゼロになる。冗談も大概にしてって言おうとした瞬間だった所為で酸素と声が喉の奥で綯い交ぜになって噎せ返りそうになった。唇が開いているなら好都合とばかりに熱くてぬめった柔らかいものが、ざらりと唇の内側を舐める。喉の奥、舌の上に溜まった唾液が飲み干しきれずに口の端から零れそうになった。舌を縮込めて必死に唇を蹂躙する甘やかな熱に耐えていると、ルフィの唇が不意に退く。この隙に酸素を取り込もうと唇を開いたら、声にならない声が出た。恐る恐る、目を薄っすら開く。涙で滲んだ向こう側。ルフィの目が、至近距離で私を覗き込んでいた。人の唇を好き勝手に食い荒らしておきながら、なんだか不満げだ。

「逃げんな」

 それは私の舌に向けての言葉だったと、再び唇が重なってから気が付いた。呼吸に必死で無防備だった舌は器用に絡めとられ、苦しくならない程度に緩く吸われる。引っ張り出されて軽く噛まれたときには、私は今皿の上にでもいるんじゃないかと錯覚してしまった。本当に今私は、ルフィに殺されずに食われている。

「ン、…甘ェ」
「…ふ、…っは…」

 離れる前に余韻を味わうようにして唇を濡らした唾液を舐め取りながらルフィが離れる。霞んだ視界を瞬かせてどうにか捉えたルフィは、恍惚と満足の間を取ったような表情をしていた。こんなルフィ、見たこと無い。まるで男の人みたいじゃないか。ルフィの掌がひたりと私の頬に沿う。微かに汗ばんでいて熱い。酸欠と興奮で、鼓動が奔る。

、泣くなよ」

 ルフィの唇が目尻にそっと降りてきて、柔らかな余韻を残す。次いでその唇は耳へと降りる。

「泣かれたら食うの止めろって言われてんだけどさ」

 言葉を囁いていた唇が、やわりと耳に触れた。吐息じゃない柔らかな感触に、ぞくりと背筋を寒気ではない何かが走る。ちろり、とざらついた感触が少しだけ耳の縁をなぞったと思えば、触れていた感触が微かに形を変える。ルフィは私の耳に口付けながら、笑ったのだ。

「おれ、止めたくねェから」

 聴覚に直接流し込まれた言葉は、すごく悪い意味でルフィらしいものだった。傍若無人、身勝手、我侭。どの言葉にも当てはまらないほど真っ直ぐな、意志。ルフィのそれを目にする度により彼を信頼するようになり、そしてそのターゲットとなった人を哀れに思ってきたけれど…今彼のターゲットは、紛れも無く、私自身だ。ずっとルフィを見て来たから分かる。

 もう私に、逃げ場なんて無い。

「ッあ…!?」

 首筋に痛みを感じて、思わず悲鳴じみた声を上げてしまった。躊躇わずに噛み付かれた首筋には、きっと血こそ流れていないけれど赤い痕ぐらいは残っているだろう。じんじんと痛み続けるそこに、ちゅ、とルフィの唇が触れる。それから、ぬるりと舌がなぞる。

「痛かったか?」
「…当然でしょ…」
「悪ィ!でもお前、痛ェとイイ声出すんだな!」

 まるで百戦錬磨のテクニシャンな悪い男のようなセリフを、そんな純真無垢な笑顔で言わないで欲しい。正直リアクションに困る。困惑を隠しもせずに複雑な表情でルフィの顔を見下ろしてみたけど、ルフィはそれすら無視してまた顔を俯けてしまった。鎖骨のお皿に唇が当たり、歯を立て、舌がなぞる。先を急がないじっくりとした唇による愛撫に、そういえばルフィは私を襲うことではなく“食べること”が目的だったことを思い出した。

「ルフィ」
「ん?」
「狂ってるよ」

 人を食べようなんて。 そう付け足す暇もくれず、ルフィは顔を上げて笑った。

「それ、サンジにも言われた!」

 なるほど、本当に狂っている人は狂っている自覚さえ持たないのね。今までルフィにまともに抵抗しようとしていた自分がなんだか滑稽に思えてきて、つい声を出して笑ってしまった。ルフィも、声を上げて笑う。
 踊る阿呆も見てる阿呆も、同じ阿呆なら流されておけばいい。変質的な愛情を以って愛されているのなら、変質的な愛情を以って受け止めてしまえばいい。一種の悟りを開いてしまったような気分で、わたしは全身から力を抜いた。
 気の澄むまで食い荒らしてくれていいよ。私もそれを望んでるから。



 耽美の国の少年アリス 


(狂気の沙汰(題名はハーケンクロイツさまより)//2010.02.14)
(このお話の続きは、ルフィ企画「PureLust」さまに提出予定。)