「…バレンタイン?」

 気配の無い笹塚の声に、随分と慣れた様子で驚くことも無くはそちらを振り返った。シャワーから上がりたてでほかほかと湯気さえ見えそうな彼は、濡れた髪にハンドタオルを引っ掛けたままで不思議そうにの手元を伺い見ている。正確には、の広げている製菓雑誌の表紙に踊るカラフルなお菓子たちを、だ。

「そうです…ってまた髪濡れたまんま…!風邪引きますよ!」

 はまるで母親のようにそう言って、ぱらぱらめくっていたチョコレート菓子の本を閉じてからテーブルに置いた。それから笹塚の手首を引き、自分の隣、ソファの上に座らせた。そうすることで随分と近くなった笹塚の頭にかかったタオルへと躊躇無く手を伸ばし、わっしゃわっしゃと、少々荒々しい手つきで彼の髪から水分を拭き取っていく。彼女のこんなところがまるで姉のようだと笹塚は思う。実質彼には姉など存在しない上、は幾分も年下なのだけれど。

 笹塚は視界の中で踊る髪の先が目に入らぬようにと目を細め、そして彼女が拭きやすいようにと頭を少々俯けた。そうすると自然と目に入るのは低い位置にあるテーブルであり、一際目を引いたのはその上に散らばったカラフルな雑誌たちだった。クッキー、ケーキ、チョコレート菓子、レンジで出来る簡単おやつ…。資料は結構な量だが、実際にはどれほど作る予定なのだろう。髪の水分が粗方取れ、の手つきが優しくなるのを待ってから笹塚は声をかける。

「誰かにあげんの?」

 の“恋人”…なんて確かな立場でなく、もっと曖昧な、強いて言うなれば兄か家庭教師のような立場に立つ身としては一応訊いておきたいことだった。義理であれ本命であれ、彼女が自分に何かをくれるのは容易に予想できるのでその分の心配は必要ない。はその問いに張り巡らされた微かな下心に気が付かぬまま、純粋に笑顔で頷いて応えた。

「はい。一応お世話になってる友達にはあげようかなって」

 笹塚の頭から手を退け、再び両手に本を持ちながら続ける。「でも何作ろうか迷っちゃうんですよね」クッキーの本とチョコの本を見比べるようにして、は困ったように眉根を寄せた。に勉強を教える代わりに家事をしてもらっている笹塚にとって、それは彼女らしい悩みに思えた。彼女は料理が得意で、むしろそれが趣味のひとつにさえなっている。そんな彼女がバレンタインデー、いわば、手作りしたものに感謝の意を込めて手渡す日にどれだけの情熱を傾けていても不思議じゃない。ただ、ハート型に焼かれたチョコレートケーキの写真を視界の隅に捉えては、ふと思い出したように笹塚の心臓に僅かな焦燥が走った。

「それ、男?」
「…へ?」
「男にも、あげんの?」

 ヤキモチですか、と咄嗟に聞き返しそうになった口をは慌てて噤む。会話だけ聞けばまるで嫉妬されているようにも聞こえるけれど、彼には別段取り乱している様子も、苛立っている様子も無い。こてり、と首を傾げる様はまさに“いつも通り”だ。こんなところで思い上がることは出来ない、と心の中で静かに雑念をふるい落としながら、は平静を装って笹塚を見上げた。人を観察しなれた刑事の目が、好意を持つ相手の瞳に走った僅かな動揺を見逃す筈も無いのだが。

「…一応…男友達にもあげます、けど…」

 でもそれは本当に友達で、男性としてチョコレートをあげたいのは笹塚さんだけなんです。言いたいけれど言える筈も無い本音を、は咄嗟に「あ!もちろん笹塚さんにも差し上げますよ!何がいいですか?」という形に作り変えて声に出していた。我ながら気の無いフリが随分と上手くなったなと、は虚しくなりながら考える。恋や片想いに年齢は関係ないなんて言うけれど、実際に年の差のある片想いをしてしまうと年齢という壁をどうにも意識してしまう。この程度の言葉さえぼかしてしまうぐらいだ。このままでは笹塚さんに、バレンタインにすら告白できまい。

「なんでもいいの?」
「もちろんですよ!なんだって作りますよ!!」

 告白が出来るかどうかは当日のコンディション次第ということにしておいて、はひとまず作るものを考えようと適当な雑誌を手に取った。そしてそれを、笹塚の方へとそのまま差し出す。この本を参考にして決めてください、という意味での行動だったのだけれど、笹塚の手は、さも当然のように本を通り越しての手首を掴んだ。風呂上がりの少しばかり高い体温が、手首をじわりと暖める。の手に握られた雑誌が、気まずそうに2人の間でだらりと項垂れた。

「じゃあ、
「…へ?」
「俺は、あんたが欲しいな」

 予想外の行動に頭が真っ白になっていたに、追い討ちを掛けるような笹塚の注文。が間の抜けた声で聞き返すと、笹塚は必要以上に分かり易い言葉を選んで丁寧に言い直した。じっ、と自分を見つめる笹塚はいつも通りの無表情。はこれを冗談と受け取るべきなのかどうすべきなのか反応に困り、そしてそれ以前に混乱していた。受け取った言葉と手首の体温が思考の中でぐちゃぐちゃになって、心音は脈越しに伝わりそうなぐらい加速して、素早く循環しだした血液は頬に熱をもたらす。一方の笹塚は、真っ赤な顔でわたわたと視線を泳がせて落ち着かない様子のを、素直に可愛いなと感じていた。まさかここまで取り乱されようとは思ってもみなかったようだが。

「なに、言ってるんですか…!」
「なんでもいいって言ったよな?だから、欲しいもん素直に言ってみたんだけど」

 そうっと伸べた手で、真っ赤になった彼女の耳を掠めるようにして髪を梳いてやる。「何か不都合?」そう付け足しながら目を細めて小首を傾げれば、の混乱には拍車が掛かった。ただでさえ魅力的な彼がそんな蠱惑的な仕草を覚えたとあればこれは大事件だ。どうしたって“惚れた弱味”のあるには勝ち目がない。この人今絶対わざとやってるわたしの反応楽しんでる!と確信めいた予感を覚え、はふるふると小刻みに首を横に振って見せた。

「そんなベタな冗談…!いっ、いらない、ですよ!!」

 本当に冗談だと思われてるらしい、と察すれば、笹塚は少々思案顔。確かに本気だと示すには意地悪が過ぎたかも知れないという結論に素早く至れば、あとは見せるべきは誠意だ、と。これで届かなければ彼女にとって自分はそういう対象じゃないんだと諦めるつもりで、笹塚は伸べていた手をそっと降ろしてを改めて見つめ直した。

「そうだな…。いい歳して何言ってんだか、って。自分でも思うよ」

 どこか真摯になった笹塚の声の響きに、の目が僅かばかり丸くなる。

「分かりやすく言うと、俺は、が好き。だから、欲しい。…さすがに分かるよな?」

 至ってシンプルでベタな、愛の告白。それが目の前の彼の唇から、自分に向けて発されたということが信じられなくて、は目を大きく瞬かせた。笹塚の視線は空回る彼女の唇を捉える。それが紡ぐ答えが、良いものであることを信じて…否、確信して。更に真っ赤になってしまった彼女は精一杯の強がりを眉間の皺に表して、それでも潤む瞳は隠しようもなく、笹塚を見上げて応えた。

「…バレンタイン前、なのに…先、越さないで下さい…っ」

 同じ気持ちを、わたしも伝えようと思っていたのに。意地が邪魔をして可愛げのない部分しか声に出せなかったけれど、声に出来なかった部分も体温を介して十分に笹塚には伝わっていた。笹塚は唇の端に微かに笑みを乗せながら、宥めるようにしての頭をぽんぽんと撫ぜる。先程のように頭を拭かれるのも嫌いでは無いが、どちらかというとこうして彼女の髪を撫ぜる側の方がいいなとぼんやり考えながら。

「そりゃ悪いことしたな。…今の、ナシにしてもいいけど」
「だめです!!」

 拒否した彼女に笹塚は今度こそ確かに笑った。それも、隣にいた彼女にすら見えたかどうか分からない程度のものだったけれど。

 笹塚は黙って、引き寄せた彼女の手首に唇を落とした。



 真実はいつも不意打ちを好む 


(大切なキミに、欲望のキス(題名は宴葬さまより)//2010.02.13)