我らが隊長、ポートガス・D・エースさんは、非常に素敵な人である。わたしは彼の下で戦えることを誇りに思う。

 しかしそんな完全無欠なエース隊長にも、ちょっとばかり困ったところがある。彼は睡眠欲に非常に弱いらしく、眠いと感じればすぐに場所も厭わず眠ってしまうらしいのだ。あんなにも大人びていて格好良い彼にそんな子供のような面があるなんて、と驚きはしたが、わたしにはその弱みを疑うことが出来ない。

 だって今まさに、エース隊長がわたしの目の前で無防備な寝顔を晒しているから、だ。

 甲板の手すりに背を預けてはいるけど若干ずり落ちていて、愛用のテンガロンハットは胸の上でしっかりと大きな掌に押さえられている。見上げれば青空。見渡せば海。見下ろせばエース隊長の子供のような笑顔。…オヤジ、わたし、こんなところにパラダイスを見つけたよ。(って言ったらオヤジはしかめっつらして「乳臭ェガキの寝顔のどこが魅力的なんだ」って言うんだろうけど。)

「エース隊長ー。…マルコ隊長が呼んでますよー…」

 あんまりにも無防備なのでずっと見つめてたい衝動にも駆られたけど、わたしには1番隊のマルコ隊長から仰せつかった“どっかで寝てるエースを起こして連れて来い”っていう任務がある。彼を起こさねばならないことを心の底から悔しく思いながら、わたしはしゃがみ込んでエース隊長の寝顔に声を掛けた。…反応は無い。っていうか、目線を同じにして眺めると一層かわいいなこの人の寝顔!

「隊長ー…起きてくださいー…」

 あんまりにも無反応なので、にじにじと近寄って改めて声を掛けてみる。やっぱり、反応無し。ううん困った…声、聞こえてないのかな。これ以上の接近はわたしの心臓以前に理性が保たないんだけど、な!むずむずと心臓を擽る悪戯心をどうにか飲み込もうとながら、エース隊長の無垢な寝顔をじっと見つめる。今のうちに心のファインダーにいっぱい留めておこう、エース隊長の寝顔。だって、彼の寝顔をこんな距離でまじまじと眺められる機会にはもう恵まれないかもしれないから。普通なら恋人にしか許されないこと、だもの。

 そんなチャンスを、わたしは黙って逃していいの?

「……起きなきゃ、ちゅーしますよ」

 わたしの中の“エゴ”が囁いたから、わたしは小さな悪戯をするぐらいの気持ちでそう声を掛けた。ここで彼が起きるなら、冗談ですよ、って笑って済まそう。それから寝ちゃう癖をからかって、マルコ隊長のところに送り出すんだ。…って脳内シュミレーションは完璧なのに。なんで起きないんですか、隊長。あと、3秒だけ待ちますから。その瞼を持ち上げてくれないなら、わたし、ホントにちゅーしちゃいますよ。 

「…沈黙は肯定と見做しますよー…」

 最終確認のつもりで、ぽつりと呟く。起きなかったのは、エース隊長の方だもん。わたしは、起きなきゃちゅーしちゃうぞって言ったもん。悪くない。深い意味も無い。本当に些細な、子供が昼寝してる親に働くような、悪意すらないイタズラなんだよ、これは。誰に向けてるかも分からない言い訳を心の中で何度も反芻して、端整な寝顔との距離をそっと縮める。真ん中で分かれた黒い前髪が顔にかかっている。静かな呼吸を繰り返している。大丈夫、おねがい、今だけ、目を覚まさないで。目的とは矛盾したことを願いながら、夢を映しているだろう彼の瞼に軽いキスを落とした。エース隊長の匂いと、海の匂い。彼の髪が頬をくすぐる。オヤジ、やっぱりここはパラダイスだよ。

 目的を達成した唇をパッ!と退けて、速やかにエース隊長から距離をとった。わたしの焦りに反して、エース隊長の寝顔は相変わらず静かで無垢で麗しいものだ。なんだ、こんなに鈍いならもうちょっとイタズラしちゃえば良かった。もう一回をやる勇気のないわたしはエース隊長の半開きの唇をそっと見遣ってから、雑念をぶるりと振るい落とした。いやいやいや!いけない!唇にだけは、いけない!とりあえずわたしだけ満足してしまって大変面目ないのだけれど、マルコ隊長には見つかりませんでしたと言っておこう。そうしよう。力強く頷いて、立ち上がり、踵を返した―ら、なんかに、手首を掴まれた。

 もうれつに、いやな、よかん。

「…ぷははっ!…あァ、そうか…。まさか、そう来るとは」
「う?…っひゃあ!?」

 ウソでしょそんな出来すぎたラブロマンス小説みたいな展開!?って誰もが思うだろう。わたしも思った。だけどたった今まで眠っていたはずの彼は私の目の前で確かにぱっちりと目を覚ましてニコニコと愉しげに笑っているし、わたしは彼に思いっきり引っ張りこまれたせいで彼の胸板に密着している。若干甲板に打った横ケツの痛みなんて気にしてられない。だけど彼との急接近にドキドキもしてられない。エース隊長、あなた、もしかして?

「よう、。そんなに魅力的だったか、おれの寝顔!」

 エース隊長は爽やかに快濶に、満面の笑みもそのままに言った。今わたし確信しました。やっぱり起きてた!この人!!確信犯だ!!ぎくっと心臓が跳ねて、肩まで跳ねて、わたしは恥ずかしくて居た堪れないっていうのにそれすらエース隊長は愉快そうに声を出して笑う。顔を真っ青にしたわたしを逃がすまいとさり気なく肩まで抱かれてしまえば恐怖ゲージも上がる訳で。でもトキメキも抑えられない訳で。な、なんだかもうどうしたらいいのか分かんなくなって来た!謝るべきなの!?謝るとこなのここ!?

「キスすんならもっと別んトコがあっただろ。例えばホラ、」

 混乱と羞恥心と気まずさでおろおろと彼を見上げるばかりのわたしに、エース隊長はそっと片方の掌を掲げてみせた。きょとんとそれを見つめると、それはやがてピースになり、2本が寄り添うようにくっつき、そのままわたしの顔にそれが降って来た。それを目で追おうとしたら黒い髪の毛先がふわっと頬に降りてきて、ついつい、そちらを見上げてしまう。

 キスでもされるんじゃないか、ってぐらいの距離で、エース隊長が口角を上げて、目を細めて、笑った。

「ココ、とか」

 ぷに、と。唇に触れた柔らかな感触は彼の指先だと分かっているのに。エース隊長の笑みと自分の妙な妄想の所為で、完全に唇が“錯覚”を起こしてしまった。瞬間的に、顔面が火達磨になってんじゃないかってぐらい熱くなる。こんな時に悲鳴を上げたり悪態を吐けるのは場慣れした女性に限った話だ。硬直して瞬きすら出来ないわたしを見て、エース隊長は一際声を上げて笑った。ぱっ、と一瞬空を仰いだエース隊長の顎から喉仏のラインが綺麗、なんて思えただけ少し余裕なのかもしれない。

「あーあ。折角おれが無防備に寝てた、ってのによ」

 さも残念とでも言いたげにわざとらしく眉尻を下げて、でも声と口は笑ったまんまでエース隊長が続ける。もういいですよなんとでも罵ってくださいわたし悟り開きますんでこれから!「惜しいなァ、実に」ええそうですね!実に惜しかったですよ唇にちゅーしちゃえば良か…って、えっ、は!?聞き捨てならないことが聞こえた気がして、わたしはエース隊長の胸板を押して彼を仰ぎ見た。力強い身体は、ぴくりとも動かなかったけれど。

「惜し…ッ!?たっ、たたた隊長!それじゃまるで……、」

 唇にキスして欲しかったように聞こえますよ!と。一番言いたかった部分は言えずに終わった。

 突然ふっと感じた風圧に条件反射的に目を閉じると、そこに熱いぐらいの体温が軽く押し当てられてしまった。柔らかいそれが離れていくのを待ってから瞼を開けると、エース隊長がわたしの反応を伺うようにしてこちらを見ていた。やんちゃな彼らしいそばかすのある頬が、とっても、近い。さらさらと、さっきまで頬を擽っていた感覚が、今度はわたしの額を撫でている。

「仕返し!」

 エース隊長は、にっ!と白い歯を見せて笑みを深めた。

 本当は、仕返しも何も!ってエース隊長をグーで殴りたい。でもそれが出来ないのは、エース隊長がすごく愉しそうに笑うから、で。彼にそんな顔をさせたのが自分で、彼がそんな顔をわたしにだけ向けてくれている。こんな状況に酔わない女の子がグランドラインのどこにいようか。瞼が熱い。彼がぐしゃぐしゃと撫でたわたしの髪の一本一本にまで熱が灯りだすようだ。

「おーい!エース!起きてんのかよい!さっさとこっち来い!」
「今に起こして貰ったトコだ!すぐ行く!」

 エースとマルコ隊長のやりとりをちょっと遠いところで起きているもののように聞きながら、わたしは必死に頬の熱が冷めるのを待った。幸い、潮風はそれほど生温くない。今目の前で立ち上がったエース隊長がさっさとマルコ隊長のところへ行ってしまったら、わたしはこのままここで風を浴びていよう。なんだかずっと夢の中に居るような心地がしてしまって、とてもじゃないけど船内雑務なんて手に付きっこないもの。



 熱を冷まそうとすることを許さないかのように、エース隊長がわたしの名前をやさしく呼んだ。ぴくん、と頭を微かに持ち上げるだけで返事すらできなかったわたしは部下としてどうなんだろう…なんて思ってると、ばさりと頭に影が降って来た!まさかの衝撃に思わず目を閉じたけど、エース隊長の力強い掌はぐりぐりとそれ越しにわたしの頭を撫でてすぐに消えてしまう。なに、これ。目を開けば、いつも見上げていたはずの鮮やかなオレンジ色がわたしの顔に影を落としていた。

「…ぼ、帽子…!?」
「陽射しは怖ェぞー?外にいるつもりなら被ってろ」

 こちらが失神してしまいそうな気遣いに更に畳み掛けるようにして、エース隊長はビシッ!とわたしを指差した。

「お前の仕返し、楽しみにしてっからな!」

 すみませんその仕草がキマってるとこ悪いんですが仕返しって楽しみにするものじゃないと思うんですけどって思ってる傍からエース隊長の背中は広いモビーディック号のどこかへと消えてしまった。なんということだろう、あの人は反論どころかツッコミを入れる暇すらくれなかった。わたしに混乱と羞恥と優しさと帽子だけ残していくなんて、とんだジャジャ馬王子をキスで起こしてしまったものだ。でもその前から起きてたんだっけ?…うん?それなら、あのタヌキ寝入りの意図はなんだったの?

 彼がうっかり眠ってしまうのは食事中に限ったことだと知ってわたしが愕然とするのは、また別のお話だ。



 こころ、掴んで離さない 

「ん?エース、お前いつもの帽子はどうしたんだよい?」
「熱中症になりそうなぐれェ真っ赤なヤツがいたんでな、貸してきた!」

(だいすきなキミへの、憧憬のキス(題名はTVさまより)//2010.02.11)