(“もしも”の世界、いわばパラレルワールドというものをご存知だろうか。もしも、あの日にこう言っていたら。もしも、あの日にこんなことをしなければ。今ここにある現実とは違った現実が用意されていたのかも知れない。 ― そんな誰しもが考え得る空想のことである。)
(さて、これからここに広がるのは、そんな“もしも”の世界の、ほんの一端での出来事である。)
サウザンドサニー号はメリー号に比べてサイズが大きく、船内も広い。そして内部構造も随分と複雑になっている。複雑、とは言えども“迷路”と呼べるほどでは無く、2日3日生活していれば覚えられる程度のものだ。しかしこれは、常人なら、の話。その常人の域から悪い方向に外れた緑頭の剣士を、はうろうろと探していた。頼みたい用があるのだけれど、男部屋にも展望室にもデッキにもゾロの姿は無い。となれば、大体可能性はほぼひとつ。“船内で迷子になってそのままどこかで眠っている”のだ。
船をぐるりと回ってみたけれど、出会えたのは、読書するロビンの姿、海図を書くナミの後姿、アクアリウムで魚を観察するルフィとウソップの後姿、開発に勤しむフランキーの姿、薬を調合するチョッパーの後姿、キッチンに立つサンジの姿。…肝心のゾロが見当たらない。そろそろ諦めかけただけれど、芝生の広がるデッキに、ふとあるものを見つけた。ソルジャードックシステムへの入り口である。まさか、とは思いつつも、はそれを開けて、船内へと続く梯子を降りた。潮の香りが少しだけ弱まる。まるで秘密基地に侵入しているかのような高揚感に胸を高鳴らせながらも、はそのソルジャードックシステムの各チャンネル内にゾロの姿を探した。
今度はあっけないほどすぐに、彼の姿を見つけることができた。
チャンネル3、シャークサブマージ3号の中に見慣れたシルエットを見つけたは、思わず深々と溜息を零す。こんなところ、迷いようも無いだろうに、と。シャークサブマージ3号の窓をノックするが反応は無く、仕方なく機体の上によじ登り、ハッチを握って引いた。深海を探索する乗り物ゆえの分厚く丸い扉が、軋むような音を立てて開く。ゾロのイビキが、止まった。
「…ん…?」
「おはよ。ゾロくん、どんなとこに迷いこんでんだよ」
ぱちぱち、と眠たげに目を瞬かせながら自分を見上げるゾロがなんだか妙に可愛らしくて、は眉尻を下げながら困ったように笑う。いつもならばここでゾロがうるせェだのこの船が複雑なだけだのと言うのだけれど、それ以上に眠いのか、ゾロは何も言わない。それはそれでまぁいいやと軽いノリで思い過ごし、は入り口部分に少し体重を預けながらゾロに話しかける。後部座席に座り、操縦席の背もたれに足を預けたままでゾロはを見上げる。
「あのさ、頼みごとがあるんだけど!いい?」
「…断る」
「そっか受けてくれるか!ありがとう!」
泣く子も黙るようなゾロの低い声をさらりと無視し、はからりと笑った。ゾロが不機嫌そうに眉を顰める。しかしにとってそれはゾロのいつもの顔であるため、怯えも動揺もしない。ただ愉しげに、シャークサブマージ3号の内部を見渡した。
「しっかしすげーな、これ!潜水艦だっけ?」
「そうらしいな」
「おもしろいよなぁ…」
きらきらと好奇心に目を輝かせる彼女を見上げ、ゾロは微かに唇の角を上げた。彼の中の悪戯心が頭を擡げる。その悪戯心を抑えようとはせず、ゾロは俊敏に腕だけを伸ばしての手首を掴んだ。そのまま、ぐいっ、と力いっぱい引く。
「うわあっ!?」
「うッ!?」
の体はいとも簡単にゾロの上へと引きずり落とされた。こんなに簡単に落ちてくるとは思っていなかったゾロは、彼女の体を己の体で受け止めることとなった。衝撃に短く呻き声をもらし、自分の体の上で驚きに目を見開くを睨みつける。
「呆気ねェにも程があんだろ!ちったァ踏ん張れ!」
「ふざけんな!!びっくりしたのはこっちだろ!クッションがあったからいいものの…!」
「誰がクッションだ!」
「うわー!このマリモ超硬ーい!」
「斬るぞテメェ!!」
中々本気で怒鳴ったところで、彼女が怯えるはずも無く。ははは、と軽やかに笑われてしまった。ゾロは益々不機嫌になるが、の表情がどこか神妙なものに変わったせいで、それも微かに和らいだ。というより、疑問に押し流されて薄らいだ。
「どうかしたか?」
「…ん?いや、ホントに硬ぇなって思って」
「当然だろ。鍛えてりゃこうなる」
「当然じゃねーよ。…俺は、こうならねぇから」
鍛えれば鍛えるほど筋肉がバリバリつくのは男性の体の特徴だ。逆に、筋肉がつきにくく脂肪がつきやすいのは女性の体の特徴である。前者の特徴を持つゾロと、後者の特徴を持つ。当然といえば当然のことなのだけれど、それを今改めて確認したは少しだけ沈んだ表情をした。ゾロもまた、彼女の表情を目にすることでその事実を色濃く再確認していた。ゾロの体をまたぐ形で腹部に乗ったままのの体は軽く、先程握った手首は華奢だった。髪の質も細く柔らかで、肌もキメが細かく滑らか。ゾロの胸筋を滑る指先も女性らしく繊細な… ―
「待て。…何してやがんだ」
「え?筋肉を触ってる」
半袖のシャツを羽織って腹巻きをしただけのほぼ上裸状態のゾロの体を、は確かめるように触れていた。言い方を変えれば、男性に馬乗りになった女性が、その男性の裸を撫でている訳である。本人にその自覚はまるで無いようだが、傍から見れば実に卑猥な状況だ。そしてその自覚が無いのは、本人だけ、なのである。ゾロは思わず困り果てた。これが見知らぬ女なら跳ね除ければ済むことだ。しかし相手が相手であるため、これはいっそチャンスにさえ思えてくる。2人きり、密着状態、相手は無防備、防音設備。鍛え上げられた冷静な思考だけが、彼の理性を繋ぎとめていた。
「…誘ってんのか」
こう問えば、さすがのでもこの状況のまずさに気が付くだろうと。そう踏んでの言葉だった。その読みは見事に当たり、は今の状況が如何に卑猥なものであるかに気が付いた。けれど彼女は身を引くどころか、座席の背もたれに手を突くようにしてゾロの体に覆いかぶさってしまう。ゾロは思わずぎょっと目を見開き、接近したの顔を見上げた。そんなゾロの頬にの指が、ぷに、と触れる。からかうような手つきが逆に扇情的だ。ゾロはどうやら、の好戦的な性格を算段に入れ損ねたようである。
「なに?あたしなんかに欲情しちゃったの?」
自分の性別を知る彼と2人きりだからこそ、は意地悪に女言葉を用いた。普段強く逞しい彼が自分の腕の下で目を白黒させる様が面白くて、ついつい、そんな行動をとってしまった訳だけれど ― それを悔いるのに、時間は掛からなかった。ゾロの掌が彼女の後頭部を押さえ、そのまま引き寄せる。突然のことに目を閉じる余裕さえなく、唇同士がぶつかり合ったと表現するのが正しいような乱雑さで、重なった。すぐ近くにある、見慣れた筈の顔。逃がすまいと力強く頭を抑える、触れ慣れた筈の掌。それらが全く見知らぬもののように見えて、は益々目を見開いた。押し付け合っているだけの唇が、やけに熱い。
「…んっ…!!」
漸く我に返ったが喉の奥から苦しげな声を出しながらゾロの胸板を押す。後頭部を抑える手が一瞬だけ緩まり、はすぐさまゾロの唇から逃れて大きく息を吸った。けれどすぐにゾロが身を起こして距離を詰めてしまう。息を吸った後の無防備な唇に、ゾロは再び“喰いついた”。びくりと跳ねたの背を宥めるようにゾロの掌がなぞる。優しいのはその掌だけで、とにかく唇で繋がることだけを目的にしたような、必死で乱雑で、暴力的なキスとのギャップには思わず混乱してしまう。瞼を半分以上下ろした鋭い瞳で自分を見つめながら角度を変えて唇を貪る彼と、背をなぞる彼がまるで別人のようで。そんな思考も酸欠のせいかぼやけて滲み、腕が緩やかに力を失くしていく。恍惚にも似た、とろんとしたの表情がゾロの劣情を更に駆り立てる。もっと、もっと、と唇を深く交えながら身を起こし、背を撫でていた腕で彼女の体をぎゅっと抱き寄せた。は、このままゾロと溶け合ってひとつになってしまうんじゃないかとさえぼんやり思った。そんな矢先、ゾロの唇が今度こそ本当に離れる。
「……、はぁ、っ…!」
漸く唇を解放された!と思えど体は解放されず、むしろ顔を思い切りゾロの肩口へと押し付けられてしまう。むぐ!と声を上げてしまうけれど、間の抜けたのそれに反応すらできぬほど、ゾロの思考はキスの熱に侵されてしまっていた。彼女と唇を合わせたことへの高揚感と興奮、求めていたものが手に入った充実感と幸福感、そしてなんとも言えぬ罪悪感がゾロの胸中で綯い交ぜになる。本当は何も喋らずにずっとこのまま抱き締めたままで、あわよくばその先へと踏み込んでしまいたいところなのだが。がゾロの胸を弱々しく押し返そうとするものだから、口先では意地悪な言葉を紡いでしまう。
「欲情したんだよ。悪ィか?」
「は…!?じょっ、…冗談だよ!あんなの!!」
キスの余韻とゾロの体温に奔る自分の心音に耳を委ねていただったが、さすがにその言葉には慌てて反応を返した。自分の冗談を本気にされているのならそれを解いてしまわないと、これ以上のことをされてしまうと本能的に悟ったのだ。ゾロの腕が緩む。彼の胸に手を突いては距離を取る。漸く見ることの出来た彼の表情は、
「おれは本気だ」
ひどく、真剣なものだった。
目の前にいるのは無愛想で怖い顔の癖に面倒見の良いゾロじゃない。ひとりの、男の人だ。そう意識した途端に不可思議な緊張感がの胸中を占め、先程のキスの余韻が生々しく蘇る。かあっ、と一気に赤くなったの頬に小さく唇を歪める程度に笑って、ゾロはもう一度くちづけようと身を屈めた。完全にテンパったの手が彼の肩を押し、それを遠ざける。
「待って!待って!!だっ、だっ、だめ、だよ!俺、…男だ…!」
変なところで区切られた言葉。声には最早泣きが入っており、目尻には涙すら浮かび始めた。自分の性別を知るゾロには通用しない言い逃れだとは分かっている。だけど、どうにかしてここから逃げ出さねばと必死なのだ。頼むから、これ以上キミを男だと思わせないで。これ以上、あたしが女だと認めさせないで。その一心で、ゾロを見上げる。
「今更何言ってんだよ。お前は女だろ」
そんなの気持ちなど露知らず、ゾロはきっぱりと応える。は聞きたくないとばかりにぶんぶんと首を横に振った。
「違う!」
「違くねェ。おれは男で、お前は女だ」
だから惚れたんだ。
勢いで口走りそうになった本音を、ゾロは咄嗟に呑み込んだ。
「……ゾロ?」
「………。…なんでもねェよ」
余韻を残したままで言葉の続きを紡ごうとしないゾロを不思議に思い、は恐る恐るゾロの表情を伺う。顔は赤らみ目は潤み、眉尻を下げた彼女の肩は微かに震えている。弱々しい幼子のようなその様子にゾロが覚えたのは嗜虐心ではなく、一層深い罪悪感だった。勢いで唇は重ねられたくせに、想いを言葉にして伝える度胸の無い自分への苛立ちがそれに重なる。そのせいでに応える言葉も唸るようなものになってしまい、は更に泣きそうな顔になる。何が彼を不機嫌にさせたのか分からない、彼が何を思っているのか分からない、これを原因に嫌われてしまったらどうしよう、と。
「次は容赦しねェ。…これに懲りたら、誘惑するようなマネは止せ」
ゾロが吐き捨てるように言いながら両腕を離した瞬間には、はそこから逃げ出していた。酸欠と混乱が思考をぐちゃぐちゃにしてしまって、わけがわからなくて、泣きそうで、彼と一緒にいるのはもう限界だった。転げ落ちそうになりながらシャークサブマージ3号の機体から降り、駆け足でハシゴを昇る。もつれそうな足を張り裂けそうな心臓が急かす。ゾロは鉄の梯子を靴底が踏む甲高い音が足早に消えていくのを聞き、それが聞こえなくなってから脱力するようにばたりと体を倒した。
本当なら、なんてことをしちまったんだ、と悔いるべき場面なのに。たった今までここにあった体温と唇の感触を思い出しては高揚感を抑えきれずにいる自分がいる。泣いて嫌がる彼女をめちゃくちゃに壊してしまえば良かったと、ほんの僅かだけれど考えてしまう。こんな浮ついた情に流されるようじゃ、おれはまだまだ浅いな、とゾロは自嘲的に笑った。
恋は密やかで不安定
(気付かないキミに、愛情のキス(題名はGeorge Boyさまより)//2010.02.10)