「…ああそっか、もうそんな時期なんだね」

 ピンク色とハートで埋めつくされた特設コーナーを眺めて、が驚いたように零した。その視線を追うようにして、仁王もそちらを見遣る。山積みにされた板チョコ。大量のデコレーション用品。目が痛くなるような包装紙。仁王は思わずぱちくりと目を瞬かせてしまったけれど、それはバレンタインコーナーの配色が毒々しかったからではなかった。腐れ縁とも呼べよう関係の彼女が、そうしたものに関心を寄せるのが珍しかったためである。

「気になるんか?」
「うん?まぁ、ちょっとだけね。一応、年頃の女の子だし」

 バレンタインコーナーに向けていた視線を仁王へと向け、は誤魔化すようにゆるりと笑う。そして緩めていた歩行速度を先程までと同じぐらいの速さに直して、バレンタインコーナーを後にした。バレンタインコーナーで真剣にチョコレートを選ぶ女子校生を視界の隅に捉えつつ、仁王もそれに倣う。きっと彼女達は今、大好きな彼のことで思考を満たしながら必死でチョコレート探しに勤しんでいるのだ。青臭くていいことだと思う。目の前の彼女―がそんな風に誰かの為にチョコレートを選ぶ日が来るのかと思うと、どうしようもなく苛立ちが募るけれど。

「へぇ?…誰か、チョコをあげたい人でもおるんかの?」

 感情を押し殺すのは仁王の特技だ。苛立ちをぐっと押し込んで、いつもの意地の悪い声と表情を作ってみせる。普通の女子ならばこの笑みを見ただけで顔を真っ赤にするところだが、流石にはこれを見慣れている。動揺などする気配も見せず、からりころりと鈴を鳴らしたような軽やかな笑い声を上げて、仁王を見上げた。

「いつか出来たらいいんだけどね、そんな人」
「…そうか」

 仁王は安心する反面、言いようも無いほど落胆した。これだけ傍にいるのだから、じゃあ今年は仁王にあげるよ!なんて言葉をくれてもいいだろうに。義理すら貰えないということは、本当に“男”だとは思われていないということになる。自分ばかりが彼女を意識しているという現状を色濃く再認識してしまい、悔しいを通り越して虚しささえ覚えた。黒のニットマフラーの内側で愚痴を溜息にして静かに吐き出すと、不意にが再度仁王を見上げる。驚いて見返すと、は先程の仁王そっくりの意地悪な顔をしていた。

「チョコ、欲しいの?」
「……なん、」
「いらないでしょ?毎年段ボール2箱に山盛りで持って帰ってくるんだから」

 あまりにも唐突な意地悪に仁王の反応は遅れてしまった。無防備に変な声を発したその隙を見逃さず、はにっこりと意地悪な笑みをいっそ清々しいほどまでに深める。仁王は、くっそ、と声にならない悪態を唇の内側でもごもご咀嚼し、代わりに目を細めて眉を顰めた。幼い頃から意地悪しすぎたせいか、たまに彼女から自分と同じ匂いを感じてしまう。

「いいよねー。男の子はチョコいっぱいもらえて!」
「まぁな。男みんなが貰えるとは限らんがの」

 毎年仁王が抱えてくるチョコレートの山ばかり見ているの誤解を、仁王はそれとなく解いてやる。自分や他のテニス部レギュラーがチョコレートを受け取ったり抱えたりしていることを快く思わない輩も当然いる訳で。当然、そんな輩こそチョコレートを貰えない部類の男の子な訳で。彼らが今のの言葉を聞いたら一体どう思うだろうか。…理解には程遠そうなので、仁王は考えることをやめた。信号待ちで足を止めながら、の肩が小さく跳ねる。何かを思いついたときの彼女の、幼い頃から変わらない癖だ。

「あ!でも今は逆チョコっていうのもあるんだよね!誰かくれないかなぁ」
「そうじゃの…柳生辺りに頼めば貰えるんじゃなか?」
「え、仁王はくれないの?」

 如何にも、くれると思ってました!と言わんばかりの驚き顔でが仁王を見る。そう言いたいのは俺の方だ。というか、ここ数年口にも出せず悶々としていた言葉をどうしてそう簡単に言えるんだ。などなど、言いたい文句は沢山あるのだけれど、どれも自分にとっては地雷に他ならない。仁王は少しだけ言葉に詰まる。その気まずくなったタイミングを見計らったように色を変えた信号を見上げて、の背中を進めと催促するように軽く押した。が顔を前に向け直して、足を前方へと運んだ、その無防備な瞬間を仁王は見逃さずに言葉を紡ぐ。

「そのセリフ、そっくりそのまま返すナリ」

 要するに、お前こそ俺にチョコをくれよ、と。正攻法が苦手な仁王にしては、随分と真っ直ぐな反論だった。その意図を、この“詐欺師”と長いこと一緒にいるが汲み取れないはずも無い。思わず止めそうになった足は仁王に蹴られて前へと進み、彼を見上げようとしたら頭をぺしりと叩かれ、挙句に髪をぐしゃぐしゃにされてしまった。ひどく乱暴な照れ隠しだ。は可笑しくなってしまい、また軽やかに笑った。それを見下ろした仁王も、穏やかに緩やかに笑みを浮かべる。

「わたし、おばあちゃんになっても仁王とこういうアホなことしてたいな」
「俺はアホなことしたりせんよ。渋ーい老紳士になっちゃるきに」
「えー、そんな仁王はヤダなぁ。柳生くんとキャラかぶっちゃうじゃん」

 冗談めかして笑いながら、仁王はの言葉を勝手に、この先もずっと一緒にいようね、というプロポーズと受け取ることにした。仁王の笑みが再び意地の悪いものになる。「」、そう名を呼べば、疑うことなく素直に彼女は自分を見上げた。呼ばれた当の本人は、オレンジ色の空を背にした仁王の髪がどこか金色に見えてキレイだなとか考えている。そんな悠長なことを考えていたせいで、身構える暇もなく額に口付けられてしまった。視界の隅で銀色がきらきらして、柔らかい感触が前髪越しに伝わって。

「喜びんしゃい。逆義理チョコぜよ」

 唇を離した仁王が、してやったり、と笑うと、の顔は瞬く間に真っ赤に染まってしまった。丁度彼女の頭上に広がる夕焼け空のようだ。声にならない悲鳴でも上げるかのようにぱくぱくと唇を空回りさせてから、漸くは眉尻を吊り上げる。どうやら状況を把握するのに時間が必要だったらしい 。

「…フライングしすぎでしょ…!!」

 額を押さえ、は仁王を殴ろうと腕を振りかぶる。当たった所で痛くないのは知っているけれど、仁王はひょいとかわしてみせた。こうするとが意地になって追い駆けてくることを知っている。幼き日のようにの足音から逃げながら、暫らくはこのままでいいか、と仁王は人知れず笑うのだった。



 ニアリーイコールな恋 


(恋人未満な、友情のキス(題名は星が水没さまより)//2010.02.08)